「神保町ミュージアム」の第1回を飾るにふさわしい名著『解体新書』は、日本初となる本格的な「西洋解剖学書」の訳本として名高い。
初版の発行は江戸中期の安永3(1774)年。杉田玄白・前野良沢・中川淳庵・桂川甫周といった、歴史に名を残す蘭方医たちの手によって編纂された。翻訳元になっているのはドイツ人医師クルムスが記した解剖書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』というのが一般的だが、このほかにもさまざまな学術書からの引用が見られる。
杉田玄白が自著『蘭学事始』で記しているように、当時はオランダ語の辞書が不完全だったため、翻訳作業は困難を極めた。「神経」「動脈」「軟骨」といった現在では当たり前になっている医学用語も、翻訳作業中に創造された言葉とか。本編4巻に図版が付いて全5巻。まさに日本近代医学の原点といえる貴重な逸品だ。
沙羅書房の初谷康行さん
『解体新書』という名前は、日本人なら誰もが一度は耳にしたことがあるはず。しかし、この歴史的な本が古書店に置かれ、購入できることを知っている方はそう多くはないだろう。沙羅書房の初谷康行さんは語る。
「今回取材していただいたセット以外にも、今までに何度かお取引させていただきました。博物館や大学関係者からの問合せが多いですね。実際に買っていかれるのも、そういった方が多いです。個人では医師の方。やはり医学のルーツともいえる本ですから、手元に置きたいというお気持ちがあるんでしょうね。」
ちなみにお値段は税抜きで350万円。一日に1万円貯めれば、一年で手が届く数字だ。これを安いと見るか、高いと見るかは、買い手しだいといったところか。
苦心したという翻訳もさることながら、さらに深く注目したいのが精巧に描かれた図版だ。じつはこれ、すべて木版によるもの。
「たしかに翻訳者の苦労があればこそ成り立った本です。でもそれと同時に、極めて優秀な"彫り師"と、それを正確に紙に写し出す"摺り師"がいなければ、この本は成立しなかったはず。どうですか、職人技が随所に見られるこの繊細な図版。素晴らしいでしょう」
古書にひときわ熱い思いを寄せる初谷さんの言葉は続く。
「おそらく何百部も刷ったはずの『解体新書』も、きちんとした形で現存するのは3〜40部といったところでしょうか。だから、歴史的な名著を埋もれさせずに、きちんと後世に伝えていきたい。少しでもそのお手伝いができれば、古本屋としてこれ以上の喜びはありません」
日本を代表する俊英たちが、身を削る思いで作りあげた近代医学の聖典『解体新書』は、医学を志したであろう数々の持ち主の手を経て、230年という長い歴史をそのページに刻みながら、今、神保町で次なる読者を待っている。
(文・ナビブライター 青木伸広)
▲ 「神経」という言葉は、それに該当する漢語がなかったため、翻訳者たちの手によって造られた。
▲ 精巧ながらどこか温かみがあるタッチは木版ならでは。後年の銅版による印刷は、よりシャープに変化。
▲ 本編が4巻と図版が1巻の全5巻。「これが全部揃っていないと価値は半分以下になります」と初谷さん。
神保町1丁目にある、和本、古地図、文科系学術古書の専門店。とくに力を入れて収集した「幕末以降の東京図」はじつに200点以上に及び、現在では江戸東京博物館に収蔵されている。前述の杉田玄白の『蘭学事始』も蔵しているとのこと。
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