「男のひとの、やわらかいものに触れるのが、好き」
涼川小夜子は、そう思っていた。
男のひとの心には、必ずやわらかい部分がある。それを見つけ、
そっと手をさし伸ばす。すると、彼らは緊張し、いきりたち、
一度は拒絶する。でも、ふわっと包むように両手でいざなえば、
やがて受け入れる、全てを。
小夜子は、神保町の古書店に生まれた。
裏通りのその店は、震災や戦災をくぐりぬけ、その姿を
留めた。彼女の記憶の多くは、古い本と共にある。
「あの、ちょっとよろしいでしょうか?」
小夜子が行きつけのお店、「ボンヴィヴァン」のカウンターでひとり
飲んでいると声をかけられた。黒縁メガネをかけたスーツ姿の男性。
年齢は、三十代後半くらいだろうか。左手の薬指には指輪があった。
女性のように繊細で長い指が、妙に艶めいている。
小夜子がさっとその色白な顔を男性に向けると、
「あ、いや、なぜ、さっきから本のページを繰らないのか、気になって
しまって……すみません。読んでらっしゃるのは、『春琴抄』、ですよね、
しかも、もしかしてそれ、初版本、ですか? とっても古い」
カウンターの向こうの悦子ママが、こちらを見て小さくうなづく。
彼女は無言のうちにいつもおしえてくれるのだ。
“このお客さんは、変なひとじゃないから、だいじょうぶよ”
小夜子は安心して、言葉をつなぐ、
「わたし、古い本の匂いが好きなんです」
「じゃあ、読んでいるのではなく、嗅いでいるのですか?」
「ええ、そうです。嗅いで、そして味わっているのです」
男性は、自分のグラスに目を落とし、
「まるで、ワインみたいですね。この赤ワインは、ギガルのクローズ・
エルミタージュ。華やかに拡がっていくというより、シラーは、内側の
影の部分に落ちていく」
あれはまだ、小夜子が小学三年生の頃だった。
腹痛を覚え、早くに学校を退した。
表の店のガラス窓は、まぜか閉まっている。仕方なく裏にまわり、
御勝手口から入ろうとすると、ガタっと店で音がする。
「おかあさん?」小さく呼んで、本が積まれた店内に行くと、
くぐもった声が聴こえた。
瞬間的に、これは聴いてはいけない声だと思う。でも、好奇心という
大きな掌が背中を押す。
また、大きな吐息がやってくる。
小夜子はじっとその場にいた。古い本の匂いを嗅ぎながら、
じっとそこを動かなかった。
おそるおそる顔を出すと、母の指が見えた。母はいくつも並んだ本の
背表紙を触っていた。その母を後ろから抱きしめているのは、見習いの
健一さんだった。母の指が、文字をうつろう。母の指が、本の背をつたう。
また深い、息がもれた。
小夜子は、積んであった本にぶつかり、大きな音がした。
「古い本の匂いを嗅ぐと、身体の芯から、痺れがやってくるんです」
小夜子は男性に幼い頃の記憶は話さずにそう言った。
男性は、しばらく小夜子とワインを見比べたあと、
「ちょっと、いいですか?」と小夜子から本を取った。
長い指が本をめくる。つかんでは、放し、つかんでは、放す。
小夜子は、その指を見ていた。まるで自分の一部が触られているかのように、息が、漏れた。
「確かに、いい、匂いがしますね。なんだか懐かしくて、ちょっと」
「ちょっと?」
「色気が、ある」
本を返してもらうとき、小夜子は男性の手に触れた。
そのあたたかさ、やわらかさに、思わず、目を閉じる。
ふ〜。もう一度、息が出た。
悦子さんが、この神保町の路地裏にお店を出したのは2006年の10月10日(10月10日は、わが部下、安部礼司の誕生日だ)。店の名前は生きることを楽しむ≠ニいう意味の「ボンヴィヴァン」。しかし皮肉にも、店をオープンして3か月で悦子さんに癌が見つかった。いきなりの入院。そして苦しい闘病生活……。でも、彼女は生きることを楽しむ≠アとにした。
そうして昨年、医師からやっと言われた。「もう通院しなくていいよ」。そう、やっと完治したのだ。彼女の手は、知っている。この人生が1度しかないこと。だからこそ、めいっぱい、楽しむべきだということを。
- 第百八話(最終回)『さくらが、濡れるとき』
- 第百七話『色、匂い、そして温かみ』(中華そば 伊峡)
- 第百六話『そこに、父が、いた。』(あたらくしあ)
- 第百伍話『元旦や、人間だけがあらたまる』(無用之用)
- 第百四話『ゆびではじいて、そう、小豆を、揺らして……』(無用之用)
- 第百参話『郡上の夜は、明けない』ナビブラ神保町
- 第百弐話『猫娘の舌ざわりと、一反木綿のうねり』明治大学米沢嘉博記念図書館
- 第百壱話『本能的な女と、壁をつくる男』(ARTイワタ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第九十九話『穴をふさぎ、穴を開く』(かふぇ あたらくしあ)
- 第九十八話『しっぽは、心をかくせない』(みわ書房)
- 第九十七話『手でやる? それとも道具を使う?』(ジェオ)
- 第九十六話『内なる奥底に取り込まれた蛍石のように』(薫風花乃堂)
- 第九十伍話『30秒、蒸らしてから……豆をほぐす』豆香房(神保町店)
- 第九十四話『落ちる実、もしくはだれでも一度は処女だった』(元)鶴谷洋服店
- 第九十参話『かきまわしたり、ときに刺したり、またかきまわしたり……』(桜日和)
- 第九十二話『ハートスナイパーは、ローズのつぼみを隠している』(CANDY BOUQUET)
- 第九十一話『あなたの、頑丈な、チューブが、私を、変える』ONNON(オンアンドオン)
- 第九十話『クリが、嫌い、でも、クリが、好き』ufu.(ウフ。)
- 第八十九話『太いギンポは、穴に入り、穴から出てくる』(しゃれこうべ)
- 第八十八話『沈み始めるまで、5秒以内』ワイン食堂 ChatGatto(シャガット)
- 第八十七話『金が光る、嫉妬の焔(ほのお)』(神田伯剌西爾)
- 第八十六話『最初は劣勢でも、巻き返せるときが来る』(共同書店PASSAGE)
- 第八十伍話『姿は見えなくても、確実にそこにいるもの』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第八十四話『だんだん、じょうぶに、なりました』(「澤口書店 巌松堂ビル店)
- 第八十参話『こぼれる、このままでは、こぼれてしまう』(あるまっぷCHIYODA)
- 第八十二話『的の中心を狙わず、穴に直接入れること』(HSTチャンネル)
- 第八十壱話『三つの穴を、埋めるもの』(大和屋履物店)
- 第八十話『運河のように、ひとという名の船が行き交う場所』(喫茶プペ)
- 第七十九話『澱が拡がる〜スノードームのように』(カフェ・トロワバグ)
- 第七十八話『空っぽなリンゴ箱の中に、たくさん詰まっているもの』BOOK SHOP無用之用
- 第七十七話『イルカのメロンは、ぷにゅぷにゅ話す』LAULE’A(ラウレア)
- 第七十六話『黒すぎる黒、白すぎる白』(文房堂)
- 第七十伍話『赤い旋律、ジャズの吐息』( JAZZ OLYMPUS!)
- 第七十四話『悶々、ホルモン……何度も転がして』(十勝ハーブ牛ホルモン MONMOM)
- 第七十参話『虞美人草の花の蜜』(おさんぽ神保町)
- 第七十二話『雄のリズム、雌のメロディ』(イリアフラメンコスタジオ)
- 第七十一話『屋根をつたう、しずく……』(加賀亭みなみ)
- 第七十話『左人差し指は、棹に対して、直角に……』(三味線と小物の店 音福)
- 第六十九話『凹凸が、織り成す色』(PRIMART/プライマート)
- 第六十八話『もちもちで、しっとりしているもの』(@ワンダー&ブックカフェ二十世紀)
- 第六十七話『入れる、入れないは、問題ではない』(リリパット/Book House Cafe)
- 第六十六話『象の鼻は、筋肉で出来ている』(バンコックコスモ食堂)
- 第六十伍話『箱のおもむき、骨のたしなみ』(三慶商店)
- 第六十四話『茹でたもの、蒸したもの、焼いたもの』(スヰートポーヅ)
- 第六十参話『男坂と女坂の、あいだにある坂』(男坂・女坂)
- 第六十弐話『路地裏の赤い哀しみ』(神田すずらん通り)
- 第六十壱話『マサラ〜混ざり合うということ』(インドレストラン マンダラ)
- 第六十話『男と女の点と線』(洋食膳 海カレー TAKEUCHI)
- 第伍十九話『桜と抹茶の間に揺れる』(庭のホテル 東京)
- 第伍十八話『メロンのようなカボチャが、口の中で溶ける』(気生根-Kifune)
- 第伍十七話『外はカリっと、エッグタルトのように』(ポルトガル菓子店「DOCE ESPIGA」)
- 第伍十六話『投げるひと、打つひと、それを見ているひと』(古書『ビブリオ』)
- 第伍十伍話『君によく似た柔らかい陽射し』(cafe&dinning『HORIZON』)
- 第伍十四話『漂流酒場で漂流する』(海文堂「漂流酒場」&「ランチカレー」)
- 第伍十参話『好きだったひとの、かほり』(神保町ブックセンター)
- 第伍十二話『ダナンの龍が火を噴くとき』(神保町「酔の助」)
- 第伍十壱話『アライグマの毛皮を着た男』(SOUP DELI)
- 第伍十話『こじれたひとが、好き』(虔十書林)
- 第四十九話『いつでも着替えられる状態にしておく』(ホワイトカレーと焼酎のお店「神田ゲレロ」)
- 第四十八話『ストレスは風味を落とし、色をくすませる』(flat Grill&Wine 神保町)
- 第四十七話『同じ場所で同じ風景をもう一度見ることは、できない』(カフェ ティシャーニ)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』(すごろくや)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』
- 第四十伍話『能面は、知っている』(書肆 山本店)
- 第四十四話『少女の羽は、夜、開く』(「珈琲舎 蔵」)
- 第四十参話『替え玉がついてくる、人生』(博多ラーメン「めんめん・かめぞう」)
- 第四十弐話『ゾウを飲み込んだ、ウワバミの哀しさ』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十壱話『混ざるほどに極みへ向かう……』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十話『鳥の目が、見ている……』(永森書店)
- 第参十九話『舌にのせて、味を楽しむ』(Bon Vivant)
- 第参十八話『自分の頭に、身を投げる』(らくごカフェ)
- 第参十七話『恋の温度、ふちの焦げ目』(pizzeria zio pippo)
- 第参十六話『太さと重さを手で測る』(金沢テニスショップ)
- 第参十伍話『猫の尻尾は、つかめない』(猫本専門 神保町にゃんこ堂)
- 第参十四話『入るとき、出ていくとき』(喫茶さぼうる)
- 第参十参話『もつの煮込みと、柔らかいそれ』(加賀亭みなみ)
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
- 第参十壱話『濡れた午後と、カフェオレの泡』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第参十話『三つの線が同時にそこにあるとき』(『お茶ナビゲート』)
- 第弐十九話『ゆっくり急げ』(雑貨『FESTINA LENTE』)
- 第弐十八話『男は、征服した女の寝乱れた顔を、見ている。』(hair&gallerybooks『moloco』)
- 第弐十七話『エックスであってNOではない』(サクラカフェ 神保町)
- 第弐十六話『妖精に出会う夜』(三省堂書店)
- 第弐十伍話『指は嘘をつかない』(神保町花月)
- 第弐十四話『炒め過ぎない』(謝謝)
- 第弐十参話『小さいけれど、精巧な何か』(呂古書房)
- 第弐十弐話:『Sに気づく夜』
- 第弐十壱話:『角度が大事』
- 第弐十話:『鳥は、鳥は、木に眠り』
- 第十九話:『夜の過ちを消せるペン』
- 第十八話:『南の島にいこうよ』
- 第十七話:『Jazzの夜に』
- 第十六話:『手触りの記憶』
- 第十五話:『顔を形作るもの』
- 第十四話:『ネバーエンディング・ストーリー』
- 第十参話:『万葉かるたのささやき』
- 第十二話:『茶色の下に隠れているもの』
- 第十一話:『煮込まない、寝かさない』
- 第十話:『消しゴムでも消せない匂い』
- 第仇話:『古書の香り、不思議の国』
- 第八話:『白い花びらの行方』
- 第七話:『わたしと あそんで』
- 第六話:『三位一体』
- 第伍話:『雨と月』
- 第四話:『仮面の下の顔』
- 第参話:『背徳の智恵子抄』
- 第弐話:『花魁の美人画・裏を返す』
- 第壱話:『春の琴・指の感触』
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
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