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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第参話『背徳の智恵子抄』

〜いやなんです
あなたのいつてしまふのが…
花よりさきに実のなるやうな
種子よりさきに芽の出るやうな
そんな理窟に合はない不自然を
どうかしないでゐて下さい〜

涼川小夜子は、『智恵子抄』を読んでいた。
竹下と一夜を過ごした跡の、朝の珈琲を飲みながら。
そこは神保町の交差点にほど近い、『トロワバグ』。
カウンターの向こうの三輪徳子さんは、いつものように凛としている。
小夜子は、三輪さんに全て見抜かれている恍惚と羞恥を感じていた。
『智恵子抄』は、三輪さんのお母さんが好きだった詩集。
この店に来ると、小夜子は必ずこの本のページをめくる。

〜いやなんです
あなたのいつてしまふのが〜

竹下は、執拗で激しかった。
久しぶりに味わうイジメ≠小夜子は受け入れた。
「小夜子さん、なんだか綺麗」
三輪さんが、輝くような笑顔で言った。
「ありがとう、三輪さんにそう言ってもらうと、うれしいし、
なんだか少し恥ずかしい。どうしていつも、私の繊細な心の惑いを
感じてくれるのかしら」
「それは……私は、とにかく目の前の人に、今日しか飲めない
とびきり美味しい珈琲を飲んで欲しいと思っているの。
そうしてカウンターから心を籠めて煎れていると、
不思議とわかるのかもしれない」
小夜子は、このひとには敵わないと思った。
全て御見通しなんだ。
それをいちばん証明しているのが、私に煎れてくれた珈琲のカップ。
いつも彼女がその日の私に合ったものを選んでくれる。
今朝のカップは、アビランドのカップ&ソーサー。
エキゾチックな樹の繊細な紋様が、艶めかしく浮かび上がる。
ふと、竹下の指先の動きを思い出す。
「手が……大事よね」
三輪さんのひとことに、小夜子は思わず顔を上げた。
「えっ?」
三輪さんは、視線に応えてくれた。
「あ、私ね、珈琲カップを持つ男性の手で、
いろんなことがわかる気がするの」
「いろんな、こと?」
「そのひとが、どんなふうに生きてきたか、そのひとが何に怒り、
何に感動してきたか」

小夜子は、白状した。
「逢って間もないひととね、私…」
三輪さんは、何も言わずにおかわりの珈琲を煎れてくれた。
しばしの沈黙のあと、三輪さんが言った。
「珈琲が開く瞬間が、好き。ふわっと開くと、いいようのない
香りが、漂うの。小夜子さん、今、開いてる」
「それは、いいこと?」
「いいこと。人間は、閉じてはいけない」
「また誘われたら私…」

〜あなたはその身を売るんです
ひとりの世界から、万人の世界へ
そして男に負けて、無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう
まるでチシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買物に出るのです〜

三輪さんは、『智恵子抄』を読む小夜子に、こう言った。 「いまさらの恋は、恥ずかしいよね」

トロワバグ

トロワバグ

電話
03-3294-8597
住所
神保町1-12-1 富田メガネB1
休み
営業
10:00〜19:00、
土・祝12:00〜19:00

ナビブラデータベース

珈琲を煎れる手

三輪さんの煎れる珈琲は、なんでこんなにも美味しいのだろう。それは、その日の体調や心の惑いをキャッチして、察知して、心を籠めて煎れてくれるから。 だから三輪さんには敵わない。嘘がつけない。そして、三輪さんには嘘がない。三輪さんが煎れる珈琲にも、嘘がない。 一度、カウンターに座って、奇跡の珈琲を飲んでほしい。たった一杯の珈琲が人生を変えることがある。