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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第仇話『古書の香り、不思議の国』

「小夜子さんが、この間、靖国通りを一緒に歩いていたひと、素敵でした」
奈穂子さんが言った。
「え?」涼川小夜子は、少し動揺して目を伏せる。
「ほら、スーツ姿の、しゅっとした男性」
竹下のことだとわかっても
「え? 誰かな」と、ごまかす。

大場奈穂子さんは、東京古書組合の職員だ。
ここ神保町が世界一の本の街になった所以はいろいろあるけれど、
この街で「古書交換会」と呼ばれる本の市場が毎日開かれていることは、
大きな要因に違いない。
組合に所属している人たちが、古書を求め、落札する。
売る人と買う人、その交流の場所があっての市場形成だ。

小夜子が古書店を継いでまだまだ新米だった頃、よくこの市場で
今は亡き祖父に鍛えられた。
「わしが教えられることは、何もない。全て、自分の目で、手で、耳で
感じてつかむんだぞ」
どうしてこの古書にそんな値がつくのか、凝視し、触り、ページを
めくった。

知らない世界でとまどう小夜子は、"セリ"に出かけるのが億劫だったけれど、
受付の奈穂子さんの笑顔を見ると、ホッとした。
「小夜子さん、今日もがんばってください」
奈穂子さんには、嘘がなかった。彼女の言葉には、彼女の笑顔同様に、
濁りが皆無だった。

「あの頃の小夜子さんは、まるで不思議の国に迷いこんだアリスみたい
でしたね」
奈穂子さんは、キラキラ光る瞳で小夜子を見る。
「私、あの物語大好きなんです。ウサギがしゃべったり、トランプが動いたり、
アリスが小さくなったり大きくなったり、ワクワクするようなことがいっぱい、
詰まってる」
小夜子は、彼女の話す姿を見ながら、自分はこんな澄んだ瞳で何かを語ることが
できるだろうかと自問した。
「どうかしました? 小夜子さん」
「え? ううん、なんでもない。奈穂子さん、その髪型、似合ってて、素敵よ」
「ありがとう。あ、小夜子さん」
「なに?」
「あのスーツ姿の男性は、綺麗だけど、ちょっと怖いですね」

昨夜、ベッドで竹下が言った。
「小夜子さんは、あれだね、ときどき、ウサギの穴に落ちたような声を
出すね」
「ウサギの、穴?」
「小さくて暗くて深い、ウサギの穴さ」
そうしてもう一度、抱き寄せられた。
天井を見ながら小夜子は思った。
『不思議の国のアリス』の結末って、どんなだったかしら?
アリスはなぜ、穴に落ちたのかしら?
おそらく、落ちた理由など何もない。
そこから出ることができた理由もなにもない。
人生には、きっと理由などない。
なぜ、竹下に今日も抱かれているのかも…。

東京都古書籍商業協同組合

東京都古書籍商業協同組合

住所
神田小川町3-22

館内放送のマイクを持つ手

奈穂子さんはその華やかな笑顔とは対照的に、 落ち着いた声をしている。 少し低く、丁寧で澱みや濁りがない。 全国から古書の問い合わせの電話がかかってくる。 その応対をする奈穂子さんの声に、安心し、魅了される人が たくさんいることは想像に難くない。 館内放送をする奈穂子さんの横顔に、冬の陽が射す。 ショートヘアが揺れて、彼女ははにかむように笑った。 「綺麗だな」と思った。