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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第十一話『煮込まない、寝かさない』

「煮込まない、寝かさない。これが私の作るカレーの極意」。
店長の鈴木奈緒子さんは言った。

古書店の若き店主、涼川小夜子は、『Cafe HINATA-YA』にいた。
駿河台下のなだらかな坂をお茶の水のほうに歩くと、三角のビルがある。
振天堂ビル。
このビルには、現存する日本最古のものではないかと思われる
エレベーターがある。
自分で格子のドアを閉めて、階数ボタンを押す。
なかなか反応しない。じっと待つとやがて、グイーンという鈍い機械音。
振動で動いていることがわかる。
到着しても、自分で開けない限り出られない。
小夜子は、このエレベーターに乗る度に思う。
情事と一緒だ。
自分で扉を開け、中に入る。閉めて、内部を触り孤独を味わう。
動いて、目的の場所に辿り着けば、やがて自分で扉を開けて、出て行く。
竹下とはまだ同じエレベーターにいるが、いつどちらかが出て行くか、
わからない。
今はまだ、閉鎖された室内でお互いのボタンを押しあっている。

『Cafe HINATA-YA』は四階にある。
三角形の店内。窓が印象的だ。『Cafe HINATA-YA』のヒナタは、陽射しの多さから。

店長の奈緒子さんは、ある日、小夜子の古書店にやってきた。
『シートン動物記』を愛おしそうに買っていった。
その少女のような横顔に魅かれた。
小夜子は奈緒子さんと友達になりたいと思った。

「私が大切にしているのはね、煮込まない、寝かさないってこと」
「二日目のカレーが美味しいっていうけど」
小夜子が反論すると、
奈緒子さんはこう言った。
「できたてのフレッシュに勝るものはないと思う」

小夜子は、昨晩の竹下との情事を思い出していた。
彼は小夜子の甘く感じるところ、辛く思うところを熟知していた。
それゆえの、安心感と怠惰。煮込まれた関係。
寝かされている自分。
初めての夜を思いだす。
シンプルなスパイスが脳天に達した。

「シンプルなほうが、ストレートに来やすいの」
そういう奈緒子さんの言葉に、
思わず、ドキッとする小夜子。
「複雑なことって、長続きしない気がする」
奈緒子さんは、さらにそう続けた。

もしかしたら、竹下との関係も、そろそろ…。
小夜子の頭に、古いエレベーターの格子が浮かんだ。
ただの格子が自分を縛る監獄に見えた。

Cafe HINATA-YA

Cafe HINATA-YA

住所
神田小川町3-10 4F

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エレベーターの格子を握る手

奈緒子さんは、美大時代の同級生と、このお店をやっている。 お二人の会話が面白い。信頼し合っている。でも、お互いを 全く別の生き物のように見ている。 奈緒子さんに好きな男性なタイプは?と聞くと、 「背の高いひと」と即答。なんだかシンプルでいい。 とにかく、チキンカレーは絶品だ。 最初に食べた瞬間から、七色に味が変わる。 まるで上質な赤ワインのように。 複雑ではないのに、芳醇。優しくて刺激的。 きっと奈緒子さんは、そんなひとなんだろうと思った。