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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第十参話『万葉かるたのささやき』

「恋ひ恋ひて 逢へる時だに愛しき 言尽してよ長くと思はば」
上村翠が、歌うように詠む。
それを、うっとりと聞いている涼川小夜子の姿があった。

ここは、神保町のカルタ専門の店『奥野かるた店』の二階。
窓から差し込む春の陽射しに、思わず目を細める小夜子。
翠は、澄んだ瞳で、こんなふうに語った。
「大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の句なんですけど、
万葉かるたの中で、好きなんです、これ」
「いいわね」
と小夜子も同意した。
「恋い焦がれて会えた夜は 浮き世のしがらみ断ち切って
愛の言葉に溺れさせてね。長くつきあいたいのなら、そんな意味なんですけど、
いいですよね、女心が可愛くも、少し怖い」
翠は、そう言いながら、ふっと笑った。

「翠が、この『奥野かるた店』に勤めるようになって、三年になるだろうか。
小夜子は、翠の話し方、声が好きだった。
どこか懐かしく、安心する。
彼女は、日本の文化や美術を守っていきたいと考え、九州から単身、
この店の門をたたいた。
万葉かるたに詠まれた世界に思いをはせながら、小夜子は、
竹下との関係について考えていた。
もうそろそろ、終わりにしなければ…。
最近、そう思うようになっていた。
昨晩の情事には、哀切と激情が交互にやってきた。
小夜子は何度も声をあげて、竹下をつかんだ。
竹下の背中に、爪が食い込んだ。

二階に上がってくる足音がした。
それを聴いた途端、小夜子は体中がぞくぞくした。
理由はわからない。ただ、私にとって、大きな意味を持つ音だと、
思った。

姿を現したのは、白髪頭の男性だった。背は低く、髭も白い。
どこかインテリジェンスを感じるいでたち。
小夜子と目が合うと、ニッコリ笑った。
その笑顔を見たとき、子宮の奥で何かが蠢くのを感じた。

「あら、砂田さん、お久しぶりです」
翠がその男性に近づいた。
「こちら、この近くの大学のセンセイの、砂田さんです」
そう紹介された砂田は、
「はじめまして、砂田です。専攻はドイツ文学なんですが、このお店の
雰囲気が好きで、通っています」
と言った。
小夜子は思った。なんだろう、笑顔に哀しさが滲んでいる。
昔、これと同じ笑顔に会ったことがあるような気がする。

翠が小夜子を紹介すると、
「ああ、あなたの古書店には行ったことがありますよ。何度か、本を買った
ことがある」
砂田は、笑顔のまま言った。

この砂田との出会いが、小夜子に大きな変化をもたらすことになるとは、
このとき、思いもしなかった。

「いやあ、小夜子さんには、懐かしい匂いがします」
小夜子が、体の匂いを嗅ぐしぐさをすると、
「はははは、いやいや、そういうことではなく」
可笑しそうにやっぱり笑った。

春の陽射しはいつしか傾いていた。
「よかったら、これから飲みにいきませんか?」
砂田が誘った。

奥野かるた店

奥野かるた店

住所
神田神保町2-26

ナビブラデータベース

『万葉かるたを持つ手』

翠さんは、大正時代の日本画家、 甲斐庄楠音(かいのしょう・ただおと)が好きだという。 翠さんの雰囲気、たたずまいとは、およそかけ離れた、 グロテスクと言ってもいい、画風。 「デロリの世界」と言われたおどろおどろしい感じ。 「一瞬の狂気をとらえている空気感がいいんです」 春の陽射しのような優しい笑顔で翠さんは言う。 このひとが抱えているものはいったいなんだろう、 神秘をまとった翠さんがそこにいた。