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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第十六話『手触りの記憶』

「小夜子さん、この蔵はねえ、大正二年の神田の大火、関東大震災、
それから、東京大空襲にも耐えたのよ」
涼川小夜子は、和紙の老舗『山形屋紙店』のおかみ、田記有子さんに
店の裏の蔵を案内してもらった。
紙の匂いがする。長い時間の香りがする。
蔵は、懐かしく、どこか淫靡だ。
ここだけ光が当たらない。ここだけ世間をはねのける。
『山形屋紙店』に勤める高橋紗智子が、小夜子の友人で、かねてから、
「ねえ、紗智子さん、蔵を見せてほしんだけど」
とお願いしていたのだ。
紗智子は、絵もうまく、文章も書く。
『本の街』という雑誌に、連載ももっている才人。
小夜子が、たまに便せんを買いにくるので、知り合いになった。
小夜子は、紗智子の愛らしい笑顔が好きだった。
「私ね、黒柳徹子の『ちびくまちゃんちのくっきーづくり』っていう
絵本が大好きだったんだよね」
ふわっと包み込むような雰囲気なのに、クールに人間を、世の中を
見ている観察眼に驚くことが何度かあった。
和紙の話をすると、目が輝く。
ほんとうに好きなひとに説明してもらうと、こちらまでうれしくなる。

蔵を見せてもらったあと、小夜子は、紗智子とワインバーで
飲んだ。
小夜子には聞きたいことがあった。
先日、砂田と一緒に『山形屋紙店』を訪れたのだ。
砂田の印象を聞きたかった。
「そうねえ…」
紗智子は言った。
「素敵なひとね。和紙についての知識があるのに、
それをひけらからすことも なく、さりげなく、
いいものを小夜子さんにすすめていた。美しい水が育んだ吉野の手漉和紙は、私も大好き」
「そう?」
「それに…」
「それに?」
「和紙を触るときの仕草が、なんだか、いやらしかった」
それは気づいていた。あの手つきは、紙を触るものではなかった。
「竹下さんとは、別れたの?」
単刀直入に訊かれて、すこし戸惑った。
「そうね、別れたような、別れていないような…」

テーブルの上の携帯電話が震えた。
小夜子はゆっくりスマホを取り上げる。
砂田からだった。
「今さ、神保町にいるんだけど、どう? これから、飲まない?」

「噂をすれば、彼でしょ? いいよ、行ってきて。
私もそろそろ帰らないと」
紗智子は、早くもカウンターの椅子を降りた。
「ごめんね」

砂田は、「庭のホテル」にいた。
彼は、大学のセンセイ。
白髪頭。背は低く、髭も白い。
「ここでさ、執筆だよ、缶詰、はははは。ここは落ち着くからさ」
まるで言い訳のように言った。

部屋に入っても、砂田は急がない。
開けていたシャンパンをグラスに注ぐ。泡が、しゅわしゅわと細かい音を立てる。
「ちょうどね、キミに手紙を書いていたんだ」。
あの吉野の和紙に、万年筆で書かれた野太い字。
「書いていたら、やっぱり会いたくなって、電話してしまった」。
小夜子の中の母性が疼く。
男の人はズルイ。こんな少年みたいな顔で見られたら、何も言えない。

手紙には、こう書いてあった。
「拝啓 涼川小夜子様
小生、あなたに、惚れました」
小夜子は、抱かれた。
和紙を触った同じ手で、触られた。
小夜子は、濡れて、千切れた。

和紙 山形屋紙店

和紙 山形屋紙店

住所
神田神保町2-17

 ナビブラDB

『和紙を持つ手』

紗智子さんが働く山形屋紙店は、創業1879(明治12)年。 初代田記俵次郎が日本橋の山形屋という紙屋に勤め、 のれんわけして、神保町に店を構えた。 それから130年以上、和紙をあつかってきた。 近年、インバウンドで外国人観光客が、お土産に買いもとめる。 紗智子さんは、看板娘。彼女の笑顔が今日もお客さんをなごませる。