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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第十八話『南の島にいこうよ』

神保町の小料理屋「やまじょう」のカウンターの上には、
いつものように大皿料理が所せましと並んでいた。
涼川小夜子が、ひとりで飲んでいると、顔なじみの女性が
やってきた。名前は松本久美さん。
「こんばんは」
久美さんの声は不思議だ。海の底の人魚が歌うようにも、天の上の
天使がささやくようにも聴こえる。
「こんばんは」
小夜子が返す。
「うわ、お茄子美味しそう!」
久美さんが、揚げ茄子の煮びたしを見て笑顔になる。
「私も、これ、ください!」
カウンターの向こうの女将さんに言う。
「小夜子さん、お久しぶりです」
「お久しぶり。久美さんは元気だった?」
「はい。おかげさまで」
久美さんは、街を豊かにする仕事をしているという。街を豊かにするというのは、
つまるところ、そこに暮らすひとが笑顔になることだと久美さんは、思っているに
違いない。小夜子は、そう、感じていた。
久美さんと小夜子の会話は、いつも仕事とは関係がない。
とりとめもない、なんでもない話。

「私、『南の島へいこうよ』っていう本が小さい頃から大好きで、
今も、手元に置いているんです」
久美さんが言った。
「著者のフリーのジャーナリスト、門田修さんは、アジア、南米、アラビアとかを
旅してるんですけど、この本には、ミクロネシアの小さな島での体験が、
リアルに語られているんです。島の名前は、サタワル! 土地の言葉で、『海の上』
っていう意味です」
久美さんは、女性の目で見ても、魅力的だった。
瞳に一点の曇りもない。ただ、その眼が、ときどき寂しそうな翳りを宿す。
それもまた小夜子の興味をひいた。
「私、神田には、縁があるんです。大学も職場も界隈だし、地理学が好きになったのは、
高校のときの地理の先生の影響なんですけど、その先生の名前、『神田』って言ったんです」
小夜子は、ほろ酔い気分で思っていた。
私も、こんなふうに、自分の言葉で自分のことを明瞭に話せたらいいのに、と。
昨晩の、砂田との逢瀬を思い出した。

大学のセンセイ、砂田は、私の上にまたがり、私を押さえつけ、こう言った。
「なあ、南の島にいかないか」
小夜子は戸惑った。今、なぜ、このタイミングで、旅行の誘い。
砂田とは、神保町で飲んだり、近くのホテルで夜を明かす以外、旅をしたことは
なかった。
「なあ、いこうよ」
砂田は、少年のようだった。
「はい」
と私が言うと、抱きついてきた。
「だから、小夜ちゃん、大好きだ。私が言ったことを否定しない」
それから、激しく求められた。
「ベッドの上でも、私は相手を否定しないかもしれない」
小夜子は、思った。
「でも、今の気持ちを自分の言葉にできない」
「あのね」
小夜子が、隣に座る久美さんに、話しかけた。
「はい」
「久美さんは、どんな男の人がいいの?」
久美さんは、視線を右斜め上にあげて、答えた。
「いつも機嫌がいいひと、感情が安定しているひとがいいかな。
怒りっぽいひとは、なんだか…嫌です」
小夜子は、ふと、思い返した。そういえば、砂田といて心地いいのは、
彼がいつも、おだやかでいてくれること。
ずいぶん歳は離れているけれど、もしかしたら、それくらい離れていないと、
この安定は手に入らないのかもしれない、そう感じていた。
「小夜子さんは、どんな男性がタイプ、なんですか?」
愛らしい瞳で、久美さんが尋ねる。小夜子は、少し迷って、こう答えた。
「私に…遠慮しないひと、かな」

やまじょう

やまじょう

住所
神田神保町1-32-2

 店舗HP

『アイスティーを持つ手』

松本久美さんは、東京・神田界隈の活性化、未来につながる街づくりに 貢献しているけれど、それを決してアピールしたりはしない。あくまでも 謙虚に、ささやかに、でも、ひたすらに尽力している。彼女は美人だけど、 いちばんの魅力は声だ。優しくて、哀しくて、あったかい。 こんな声を持つひとは、きっと、神様に選ばれている。