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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第十九話『夜の過ちを消せるペン』

「替え芯をできるだけ多く用意しておくこと、それが大事なの」
神保町の文房具屋さん『信誠堂』の店長、平塚奈々江は言った。
涼川小夜子は、いつもこのお店を贔屓にしている。
摩擦熱を利用して消せるインクを 搭載した
フリクションボールペンの存在も、奈々江に教わった。
替え芯を購入するという目的もあったが、
小夜子にとってここを訪れるのは、
奈々江との会話を楽しみたいという思いの方が強かった。
奈々江は、いつも笑顔を絶やさない。どんなお客様にも同じように接し、
面倒見が よかった。
彼女に相談すれば、どんな文房具も手に入る、そんな安心感があった。
「あれ?小夜ちゃん、髪、切った?」
「さすが、奈々江さん、気づいたひと、初めて」
「いいね、似合ってる」
「ありがとう」
あらためて、フリクションボールペンの解説を読む。
『ペンの後ろについているラバーでこすると、色が消えます』。
ラバーでこすると、色が消える。
もちろんここでのラバーは、ゴム製品のラバー。
でも、小夜子は『恋人』という 単語を想像した。
ラバーがこすると、色が消える。
「で」が「が」に変わるだけで、意味が違って聴こえる。
昨晩の乱れた自分を思い出していた。

大学のセンセイ、砂田が定宿にしている『庭のホテル』に泊まった。
とにかくめちゃくちゃにしてほしかった。
竹下とのこと、いや、今までつきあった全ての男とのことを、
全部忘れ去るほど、 激しく甚振ってほしかった。
その気持ちが砂田に伝わったのだろうか。彼は執拗に小夜子を嬲った。
決してすぐには核に触れない。高速エレベーターはぐんぐんと高まり、高層階に差し掛かるが、屋上にたどり着く前に、突然、停止して息をつく。
じれる。はがゆい。あっという間にエレベーターは下り、
また初めからやり直し。
何回かの昇降を繰り返し、やっと頂にのぼったとき、
小夜子は大きな声をあげた。
それは今まで出したことのない、放声。
虎になった人間が仲間に叫ぶような声。
砂田の背中に自分の爪が食い込むのがわかった。
涙と涎が、顔を覆った。
「…なんていうかさ、こんなこと言葉にすると、とっても陳腐に聴こえるけど、 すごく…よかったよ」
砂田が、まるでフィギュアスケートの演技を見守った外国人コーチのように言った。
小夜子は、今までにない脱力感と喪失感を感じていた。
それらが過ぎ去ったあと、羞恥がやってきた。
(消したい、全て、消したい)
そう思った。
砂田は、背を向けたまま、煙草に火をつけた。
ふわっと吐いた白いものが、小夜子から吸い取った魂のように見えた。

「消せるってことが大事なんだよね、今は」
奈々江さんが言った。
「それはきっと消せないことが多すぎるから」
小夜子が返した。
「小夜ちゃん、何かあった?」
「あったと言えばあったかな。ずいぶん前につきあったひとがね、亡くなったの」
「そう」
「ウチの店に、いつも古書を買いにきたお客さんで、無口なひとだった。奥さんがね、 わざわざ知らせてくれたの」
「そう」
「ねえ奈々江さん」
「なに?」
「心にも、替え芯があるといいのにね。すり減っても、折れても、替えることが できないから、苦しいね」
そこで、奈々江は、ふわっと笑った。
「逆、逆、小夜ちゃん、逆だよ。人間にはね、考えられないくらいの替え芯が、 最初から備わっているんだよ。何度だってやり直せる、何度だってもとに戻れる。
私ね、文房具は人生の、人間のメタファだって思うんだよね。このお店にはいろんな 機能を持った品物がそろっているけど、これね、全部、人間の心は持ってるの。
整理する、書く、消す、保存する、切る、穴をあける、貼りつける・・・。
このお店の匂いは、私が考える心の匂い」
小夜子は、すっと息を吸った。
確かに、どこか懐かしい匂いがやってきた。

信誠堂

信誠堂

住所
神田神保町2−20

 店舗HP

『バインダーを持つ手』

奈々江さんは、幼い頃、『せんろはつづく』という絵本に魅かれたという。 線路を敷くひとは、どんどん線路を敷いていく。前へ前へ、先に先に。 その働きが、未来をつくる。 奈々江さんは、訪れるお客様の心に、線路をつくるひと。 そこに思い思いの電車が走れるように、しっかりとした線路を提供するひと。 美しい笑顔が、今日もお店を明るくする。 「いらっしゃいませ〜」