「替え芯をできるだけ多く用意しておくこと、それが大事なの」
神保町の文房具屋さん『信誠堂』の店長、平塚奈々江は言った。
涼川小夜子は、いつもこのお店を贔屓にしている。
摩擦熱を利用して消せるインクを
搭載した
フリクションボールペンの存在も、奈々江に教わった。
替え芯を購入するという目的もあったが、
小夜子にとってここを訪れるのは、
奈々江との会話を楽しみたいという思いの方が強かった。
奈々江は、いつも笑顔を絶やさない。どんなお客様にも同じように接し、
面倒見が
よかった。
彼女に相談すれば、どんな文房具も手に入る、そんな安心感があった。
「あれ?小夜ちゃん、髪、切った?」
「さすが、奈々江さん、気づいたひと、初めて」
「いいね、似合ってる」
「ありがとう」
あらためて、フリクションボールペンの解説を読む。
『ペンの後ろについているラバーでこすると、色が消えます』。
ラバーでこすると、色が消える。
もちろんここでのラバーは、ゴム製品のラバー。
でも、小夜子は『恋人』という
単語を想像した。
ラバーがこすると、色が消える。
「で」が「が」に変わるだけで、意味が違って聴こえる。
昨晩の乱れた自分を思い出していた。
大学のセンセイ、砂田が定宿にしている『庭のホテル』に泊まった。
とにかくめちゃくちゃにしてほしかった。
竹下とのこと、いや、今までつきあった全ての男とのことを、
全部忘れ去るほど、
激しく甚振ってほしかった。
その気持ちが砂田に伝わったのだろうか。彼は執拗に小夜子を嬲った。
決してすぐには核に触れない。高速エレベーターはぐんぐんと高まり、高層階に差し掛かるが、屋上にたどり着く前に、突然、停止して息をつく。
じれる。はがゆい。あっという間にエレベーターは下り、
また初めからやり直し。
何回かの昇降を繰り返し、やっと頂にのぼったとき、
小夜子は大きな声をあげた。
それは今まで出したことのない、放声。
虎になった人間が仲間に叫ぶような声。
砂田の背中に自分の爪が食い込むのがわかった。
涙と涎が、顔を覆った。
「…なんていうかさ、こんなこと言葉にすると、とっても陳腐に聴こえるけど、
すごく…よかったよ」
砂田が、まるでフィギュアスケートの演技を見守った外国人コーチのように言った。
小夜子は、今までにない脱力感と喪失感を感じていた。
それらが過ぎ去ったあと、羞恥がやってきた。
(消したい、全て、消したい)
そう思った。
砂田は、背を向けたまま、煙草に火をつけた。
ふわっと吐いた白いものが、小夜子から吸い取った魂のように見えた。
「消せるってことが大事なんだよね、今は」
奈々江さんが言った。
「それはきっと消せないことが多すぎるから」
小夜子が返した。
「小夜ちゃん、何かあった?」
「あったと言えばあったかな。ずいぶん前につきあったひとがね、亡くなったの」
「そう」
「ウチの店に、いつも古書を買いにきたお客さんで、無口なひとだった。奥さんがね、
わざわざ知らせてくれたの」
「そう」
「ねえ奈々江さん」
「なに?」
「心にも、替え芯があるといいのにね。すり減っても、折れても、替えることが
できないから、苦しいね」
そこで、奈々江は、ふわっと笑った。
「逆、逆、小夜ちゃん、逆だよ。人間にはね、考えられないくらいの替え芯が、
最初から備わっているんだよ。何度だってやり直せる、何度だってもとに戻れる。
私ね、文房具は人生の、人間のメタファだって思うんだよね。このお店にはいろんな
機能を持った品物がそろっているけど、これね、全部、人間の心は持ってるの。
整理する、書く、消す、保存する、切る、穴をあける、貼りつける・・・。
このお店の匂いは、私が考える心の匂い」
小夜子は、すっと息を吸った。
確かに、どこか懐かしい匂いがやってきた。
奈々江さんは、幼い頃、『せんろはつづく』という絵本に魅かれたという。 線路を敷くひとは、どんどん線路を敷いていく。前へ前へ、先に先に。 その働きが、未来をつくる。 奈々江さんは、訪れるお客様の心に、線路をつくるひと。 そこに思い思いの電車が走れるように、しっかりとした線路を提供するひと。 美しい笑顔が、今日もお店を明るくする。 「いらっしゃいませ〜」
- 第百八話(最終回)『さくらが、濡れるとき』
- 第百七話『色、匂い、そして温かみ』(中華そば 伊峡)
- 第百六話『そこに、父が、いた。』(あたらくしあ)
- 第百伍話『元旦や、人間だけがあらたまる』(無用之用)
- 第百四話『ゆびではじいて、そう、小豆を、揺らして……』(無用之用)
- 第百参話『郡上の夜は、明けない』ナビブラ神保町
- 第百弐話『猫娘の舌ざわりと、一反木綿のうねり』明治大学米沢嘉博記念図書館
- 第百壱話『本能的な女と、壁をつくる男』(ARTイワタ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第九十九話『穴をふさぎ、穴を開く』(かふぇ あたらくしあ)
- 第九十八話『しっぽは、心をかくせない』(みわ書房)
- 第九十七話『手でやる? それとも道具を使う?』(ジェオ)
- 第九十六話『内なる奥底に取り込まれた蛍石のように』(薫風花乃堂)
- 第九十伍話『30秒、蒸らしてから……豆をほぐす』豆香房(神保町店)
- 第九十四話『落ちる実、もしくはだれでも一度は処女だった』(元)鶴谷洋服店
- 第九十参話『かきまわしたり、ときに刺したり、またかきまわしたり……』(桜日和)
- 第九十二話『ハートスナイパーは、ローズのつぼみを隠している』(CANDY BOUQUET)
- 第九十一話『あなたの、頑丈な、チューブが、私を、変える』ONNON(オンアンドオン)
- 第九十話『クリが、嫌い、でも、クリが、好き』ufu.(ウフ。)
- 第八十九話『太いギンポは、穴に入り、穴から出てくる』(しゃれこうべ)
- 第八十八話『沈み始めるまで、5秒以内』ワイン食堂 ChatGatto(シャガット)
- 第八十七話『金が光る、嫉妬の焔(ほのお)』(神田伯剌西爾)
- 第八十六話『最初は劣勢でも、巻き返せるときが来る』(共同書店PASSAGE)
- 第八十伍話『姿は見えなくても、確実にそこにいるもの』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第八十四話『だんだん、じょうぶに、なりました』(「澤口書店 巌松堂ビル店)
- 第八十参話『こぼれる、このままでは、こぼれてしまう』(あるまっぷCHIYODA)
- 第八十二話『的の中心を狙わず、穴に直接入れること』(HSTチャンネル)
- 第八十壱話『三つの穴を、埋めるもの』(大和屋履物店)
- 第八十話『運河のように、ひとという名の船が行き交う場所』(喫茶プペ)
- 第七十九話『澱が拡がる〜スノードームのように』(カフェ・トロワバグ)
- 第七十八話『空っぽなリンゴ箱の中に、たくさん詰まっているもの』BOOK SHOP無用之用
- 第七十七話『イルカのメロンは、ぷにゅぷにゅ話す』LAULE’A(ラウレア)
- 第七十六話『黒すぎる黒、白すぎる白』(文房堂)
- 第七十伍話『赤い旋律、ジャズの吐息』( JAZZ OLYMPUS!)
- 第七十四話『悶々、ホルモン……何度も転がして』(十勝ハーブ牛ホルモン MONMOM)
- 第七十参話『虞美人草の花の蜜』(おさんぽ神保町)
- 第七十二話『雄のリズム、雌のメロディ』(イリアフラメンコスタジオ)
- 第七十一話『屋根をつたう、しずく……』(加賀亭みなみ)
- 第七十話『左人差し指は、棹に対して、直角に……』(三味線と小物の店 音福)
- 第六十九話『凹凸が、織り成す色』(PRIMART/プライマート)
- 第六十八話『もちもちで、しっとりしているもの』(@ワンダー&ブックカフェ二十世紀)
- 第六十七話『入れる、入れないは、問題ではない』(リリパット/Book House Cafe)
- 第六十六話『象の鼻は、筋肉で出来ている』(バンコックコスモ食堂)
- 第六十伍話『箱のおもむき、骨のたしなみ』(三慶商店)
- 第六十四話『茹でたもの、蒸したもの、焼いたもの』(スヰートポーヅ)
- 第六十参話『男坂と女坂の、あいだにある坂』(男坂・女坂)
- 第六十弐話『路地裏の赤い哀しみ』(神田すずらん通り)
- 第六十壱話『マサラ〜混ざり合うということ』(インドレストラン マンダラ)
- 第六十話『男と女の点と線』(洋食膳 海カレー TAKEUCHI)
- 第伍十九話『桜と抹茶の間に揺れる』(庭のホテル 東京)
- 第伍十八話『メロンのようなカボチャが、口の中で溶ける』(気生根-Kifune)
- 第伍十七話『外はカリっと、エッグタルトのように』(ポルトガル菓子店「DOCE ESPIGA」)
- 第伍十六話『投げるひと、打つひと、それを見ているひと』(古書『ビブリオ』)
- 第伍十伍話『君によく似た柔らかい陽射し』(cafe&dinning『HORIZON』)
- 第伍十四話『漂流酒場で漂流する』(海文堂「漂流酒場」&「ランチカレー」)
- 第伍十参話『好きだったひとの、かほり』(神保町ブックセンター)
- 第伍十二話『ダナンの龍が火を噴くとき』(神保町「酔の助」)
- 第伍十壱話『アライグマの毛皮を着た男』(SOUP DELI)
- 第伍十話『こじれたひとが、好き』(虔十書林)
- 第四十九話『いつでも着替えられる状態にしておく』(ホワイトカレーと焼酎のお店「神田ゲレロ」)
- 第四十八話『ストレスは風味を落とし、色をくすませる』(flat Grill&Wine 神保町)
- 第四十七話『同じ場所で同じ風景をもう一度見ることは、できない』(カフェ ティシャーニ)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』(すごろくや)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』
- 第四十伍話『能面は、知っている』(書肆 山本店)
- 第四十四話『少女の羽は、夜、開く』(「珈琲舎 蔵」)
- 第四十参話『替え玉がついてくる、人生』(博多ラーメン「めんめん・かめぞう」)
- 第四十弐話『ゾウを飲み込んだ、ウワバミの哀しさ』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十壱話『混ざるほどに極みへ向かう……』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十話『鳥の目が、見ている……』(永森書店)
- 第参十九話『舌にのせて、味を楽しむ』(Bon Vivant)
- 第参十八話『自分の頭に、身を投げる』(らくごカフェ)
- 第参十七話『恋の温度、ふちの焦げ目』(pizzeria zio pippo)
- 第参十六話『太さと重さを手で測る』(金沢テニスショップ)
- 第参十伍話『猫の尻尾は、つかめない』(猫本専門 神保町にゃんこ堂)
- 第参十四話『入るとき、出ていくとき』(喫茶さぼうる)
- 第参十参話『もつの煮込みと、柔らかいそれ』(加賀亭みなみ)
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
- 第参十壱話『濡れた午後と、カフェオレの泡』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第参十話『三つの線が同時にそこにあるとき』(『お茶ナビゲート』)
- 第弐十九話『ゆっくり急げ』(雑貨『FESTINA LENTE』)
- 第弐十八話『男は、征服した女の寝乱れた顔を、見ている。』(hair&gallerybooks『moloco』)
- 第弐十七話『エックスであってNOではない』(サクラカフェ 神保町)
- 第弐十六話『妖精に出会う夜』(三省堂書店)
- 第弐十伍話『指は嘘をつかない』(神保町花月)
- 第弐十四話『炒め過ぎない』(謝謝)
- 第弐十参話『小さいけれど、精巧な何か』(呂古書房)
- 第弐十弐話:『Sに気づく夜』
- 第弐十壱話:『角度が大事』
- 第弐十話:『鳥は、鳥は、木に眠り』
- 第十九話:『夜の過ちを消せるペン』
- 第十八話:『南の島にいこうよ』
- 第十七話:『Jazzの夜に』
- 第十六話:『手触りの記憶』
- 第十五話:『顔を形作るもの』
- 第十四話:『ネバーエンディング・ストーリー』
- 第十参話:『万葉かるたのささやき』
- 第十二話:『茶色の下に隠れているもの』
- 第十一話:『煮込まない、寝かさない』
- 第十話:『消しゴムでも消せない匂い』
- 第仇話:『古書の香り、不思議の国』
- 第八話:『白い花びらの行方』
- 第七話:『わたしと あそんで』
- 第六話:『三位一体』
- 第伍話:『雨と月』
- 第四話:『仮面の下の顔』
- 第参話:『背徳の智恵子抄』
- 第弐話:『花魁の美人画・裏を返す』
- 第壱話:『春の琴・指の感触』
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
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