「自分の物差しで相手を測るな!っていうのを、ワタシ、こんなふうに
間違えちゃったんです。自分の分度器で相手の角度を測るな!
だって、角度って大事、ですよね」
そう、みんぽこが言うと、涼川小夜子は、笑った。
ここは、神保町の裏路地にある『チャボ』。ホワイトカレーで有名な店だ。
水曜日の夜は、みんぽこが、店に立つ。通称水チャボ≠ヘ、
彼女を目当てに、多くの客がおしかける。
彼女は、もともと声優。今は舞台やイベントのMCを中心に、
ナレーターからダンス、演技までなんでもこなすエンターテイナーだ。
小夜子は、みんぽこが、好きだった。
肩を張らずに、なんでも話せる。
「小夜子さん、今夜はなんだか、スッキリした顔してるね」
「そう? あ、男と別れたからかな」
「メガネ? それとも、おじさん?」
「メガネも、おじさんも、もう終わりにした」
「すっごい! いいね、なんかいいね!」
みんぽこは、小夜子のグラスに白ワインをつぎ、自分のグラスも満たした。
「かんぱい!」
彼女は満面の笑みで言った。
小夜子は、しばし妄想にふけった。
ベッドにしばりつけられた全裸の自分。仮面をつけた竹下と砂田が、
彼女を攻める。じらしながら、執拗に、
ひとつの場所からなかなか立ち去らずに。
もだえる彼女の反応に満足する二人の男たち。
やがて、二人が、核心に迫る。
小夜子にとって、もっとも恥ずかしい恰好が何かなのかを、
二人は知っていた。
逃げられない。どこにもいけない。そんな諦念が快感に変わる。
声が出る。大きな声が、出る。
「小夜子さんって、なんか彼氏いないときのほうが色っぽいですよね」
みんぽこの声で妄想が途絶えた。
「え? そ、そう?」
みんぽこは、『しましまちゃんはおにいちゃん』という
絵本が好きだったという。
子猫のしましまちゃんの家に、赤ちゃんが6匹生まれた。
お兄ちゃんになったしましまちゃんの後をくっついてくる
6匹の赤ちゃん猫たち…。
「なんでかなあ、好きだったんですよね、その絵本が」
小夜子は思う。
みんぽこのオープンな心は、いつも誰かを引き連れている、
いつも何かを守っている。
だから、たくさんのひとが、ここに集う。
「あ、準ちゃん、このひと、古書店主の小夜子さん!」
みんぽこが、カウンターの奥で飲んでいる若者に声をかけた。
キャップをかぶり、覗いた髪は金髪。右耳には三つ、ピアスがあった。
彼は軽く頭を下げた。小夜子も、頭を下げる。
「準ちゃんねえ、役者やってるんだけど、舞台、あるんだよね。
ねえ今度一緒にいかない? 小夜子さん」
彼は、そんなことはどうだっていいという感じは崩さずに、
無言でチラシを小夜子に渡した。
チラシには、暗い夜空にかかる虹の絵が描かれていた。
その半円は、まるで分度器に見えた。
「角度が大事」という、みんぽこの言葉がよみがえる。
「よかったら、どうぞ。貧乏劇団なんで、その、招待とか、あれですけど、
よかったら」
いい声だった。少し高い済んだ声。風貌とは違う清潔感があった。
「はい。ぜひ、うかがいます」
みんぽこは、準と小夜子の顔を交互に見ながら満足気にうなづいた。
「もうすぐ、クリスマスかあ…。2016年も終わっちゃうねえ。
どんな年になるかな、2017年」
少し芝居がかって、みんぽこが言った。
神保町の裏路地にも、師走の風が吹き抜けていった。
小夜子は、何かが始まりそうな予感を抱いて、いつまでも、チラシを
見ていた。
みんぽこさんのタイプは、ちょっとやんちゃで一重まぶた。 中村獅童さんや、横浜DeNAベイスターズの筒香選手が好みらしい。 話していると柔らかい真綿で包まれているような心地よさを覚える。 おそらくとんでもなく母性本能が強いひとなのではないかと想像する。 とにかく努力家、勉強家。野球のルールをしっかり覚えて、 今では「タッチ・アップ」も「インフィールドフライ」の意味もわかり、 ニコ生野球解説のアシスタントをこなす。 癒されたいひとは、ぜひ、水曜日の夜、『チャボ』へ!
- 第百八話(最終回)『さくらが、濡れるとき』
- 第百七話『色、匂い、そして温かみ』(中華そば 伊峡)
- 第百六話『そこに、父が、いた。』(あたらくしあ)
- 第百伍話『元旦や、人間だけがあらたまる』(無用之用)
- 第百四話『ゆびではじいて、そう、小豆を、揺らして……』(無用之用)
- 第百参話『郡上の夜は、明けない』ナビブラ神保町
- 第百弐話『猫娘の舌ざわりと、一反木綿のうねり』明治大学米沢嘉博記念図書館
- 第百壱話『本能的な女と、壁をつくる男』(ARTイワタ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第九十九話『穴をふさぎ、穴を開く』(かふぇ あたらくしあ)
- 第九十八話『しっぽは、心をかくせない』(みわ書房)
- 第九十七話『手でやる? それとも道具を使う?』(ジェオ)
- 第九十六話『内なる奥底に取り込まれた蛍石のように』(薫風花乃堂)
- 第九十伍話『30秒、蒸らしてから……豆をほぐす』豆香房(神保町店)
- 第九十四話『落ちる実、もしくはだれでも一度は処女だった』(元)鶴谷洋服店
- 第九十参話『かきまわしたり、ときに刺したり、またかきまわしたり……』(桜日和)
- 第九十二話『ハートスナイパーは、ローズのつぼみを隠している』(CANDY BOUQUET)
- 第九十一話『あなたの、頑丈な、チューブが、私を、変える』ONNON(オンアンドオン)
- 第九十話『クリが、嫌い、でも、クリが、好き』ufu.(ウフ。)
- 第八十九話『太いギンポは、穴に入り、穴から出てくる』(しゃれこうべ)
- 第八十八話『沈み始めるまで、5秒以内』ワイン食堂 ChatGatto(シャガット)
- 第八十七話『金が光る、嫉妬の焔(ほのお)』(神田伯剌西爾)
- 第八十六話『最初は劣勢でも、巻き返せるときが来る』(共同書店PASSAGE)
- 第八十伍話『姿は見えなくても、確実にそこにいるもの』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第八十四話『だんだん、じょうぶに、なりました』(「澤口書店 巌松堂ビル店)
- 第八十参話『こぼれる、このままでは、こぼれてしまう』(あるまっぷCHIYODA)
- 第八十二話『的の中心を狙わず、穴に直接入れること』(HSTチャンネル)
- 第八十壱話『三つの穴を、埋めるもの』(大和屋履物店)
- 第八十話『運河のように、ひとという名の船が行き交う場所』(喫茶プペ)
- 第七十九話『澱が拡がる〜スノードームのように』(カフェ・トロワバグ)
- 第七十八話『空っぽなリンゴ箱の中に、たくさん詰まっているもの』BOOK SHOP無用之用
- 第七十七話『イルカのメロンは、ぷにゅぷにゅ話す』LAULE’A(ラウレア)
- 第七十六話『黒すぎる黒、白すぎる白』(文房堂)
- 第七十伍話『赤い旋律、ジャズの吐息』( JAZZ OLYMPUS!)
- 第七十四話『悶々、ホルモン……何度も転がして』(十勝ハーブ牛ホルモン MONMOM)
- 第七十参話『虞美人草の花の蜜』(おさんぽ神保町)
- 第七十二話『雄のリズム、雌のメロディ』(イリアフラメンコスタジオ)
- 第七十一話『屋根をつたう、しずく……』(加賀亭みなみ)
- 第七十話『左人差し指は、棹に対して、直角に……』(三味線と小物の店 音福)
- 第六十九話『凹凸が、織り成す色』(PRIMART/プライマート)
- 第六十八話『もちもちで、しっとりしているもの』(@ワンダー&ブックカフェ二十世紀)
- 第六十七話『入れる、入れないは、問題ではない』(リリパット/Book House Cafe)
- 第六十六話『象の鼻は、筋肉で出来ている』(バンコックコスモ食堂)
- 第六十伍話『箱のおもむき、骨のたしなみ』(三慶商店)
- 第六十四話『茹でたもの、蒸したもの、焼いたもの』(スヰートポーヅ)
- 第六十参話『男坂と女坂の、あいだにある坂』(男坂・女坂)
- 第六十弐話『路地裏の赤い哀しみ』(神田すずらん通り)
- 第六十壱話『マサラ〜混ざり合うということ』(インドレストラン マンダラ)
- 第六十話『男と女の点と線』(洋食膳 海カレー TAKEUCHI)
- 第伍十九話『桜と抹茶の間に揺れる』(庭のホテル 東京)
- 第伍十八話『メロンのようなカボチャが、口の中で溶ける』(気生根-Kifune)
- 第伍十七話『外はカリっと、エッグタルトのように』(ポルトガル菓子店「DOCE ESPIGA」)
- 第伍十六話『投げるひと、打つひと、それを見ているひと』(古書『ビブリオ』)
- 第伍十伍話『君によく似た柔らかい陽射し』(cafe&dinning『HORIZON』)
- 第伍十四話『漂流酒場で漂流する』(海文堂「漂流酒場」&「ランチカレー」)
- 第伍十参話『好きだったひとの、かほり』(神保町ブックセンター)
- 第伍十二話『ダナンの龍が火を噴くとき』(神保町「酔の助」)
- 第伍十壱話『アライグマの毛皮を着た男』(SOUP DELI)
- 第伍十話『こじれたひとが、好き』(虔十書林)
- 第四十九話『いつでも着替えられる状態にしておく』(ホワイトカレーと焼酎のお店「神田ゲレロ」)
- 第四十八話『ストレスは風味を落とし、色をくすませる』(flat Grill&Wine 神保町)
- 第四十七話『同じ場所で同じ風景をもう一度見ることは、できない』(カフェ ティシャーニ)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』(すごろくや)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』
- 第四十伍話『能面は、知っている』(書肆 山本店)
- 第四十四話『少女の羽は、夜、開く』(「珈琲舎 蔵」)
- 第四十参話『替え玉がついてくる、人生』(博多ラーメン「めんめん・かめぞう」)
- 第四十弐話『ゾウを飲み込んだ、ウワバミの哀しさ』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十壱話『混ざるほどに極みへ向かう……』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十話『鳥の目が、見ている……』(永森書店)
- 第参十九話『舌にのせて、味を楽しむ』(Bon Vivant)
- 第参十八話『自分の頭に、身を投げる』(らくごカフェ)
- 第参十七話『恋の温度、ふちの焦げ目』(pizzeria zio pippo)
- 第参十六話『太さと重さを手で測る』(金沢テニスショップ)
- 第参十伍話『猫の尻尾は、つかめない』(猫本専門 神保町にゃんこ堂)
- 第参十四話『入るとき、出ていくとき』(喫茶さぼうる)
- 第参十参話『もつの煮込みと、柔らかいそれ』(加賀亭みなみ)
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
- 第参十壱話『濡れた午後と、カフェオレの泡』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第参十話『三つの線が同時にそこにあるとき』(『お茶ナビゲート』)
- 第弐十九話『ゆっくり急げ』(雑貨『FESTINA LENTE』)
- 第弐十八話『男は、征服した女の寝乱れた顔を、見ている。』(hair&gallerybooks『moloco』)
- 第弐十七話『エックスであってNOではない』(サクラカフェ 神保町)
- 第弐十六話『妖精に出会う夜』(三省堂書店)
- 第弐十伍話『指は嘘をつかない』(神保町花月)
- 第弐十四話『炒め過ぎない』(謝謝)
- 第弐十参話『小さいけれど、精巧な何か』(呂古書房)
- 第弐十弐話:『Sに気づく夜』
- 第弐十壱話:『角度が大事』
- 第弐十話:『鳥は、鳥は、木に眠り』
- 第十九話:『夜の過ちを消せるペン』
- 第十八話:『南の島にいこうよ』
- 第十七話:『Jazzの夜に』
- 第十六話:『手触りの記憶』
- 第十五話:『顔を形作るもの』
- 第十四話:『ネバーエンディング・ストーリー』
- 第十参話:『万葉かるたのささやき』
- 第十二話:『茶色の下に隠れているもの』
- 第十一話:『煮込まない、寝かさない』
- 第十話:『消しゴムでも消せない匂い』
- 第仇話:『古書の香り、不思議の国』
- 第八話:『白い花びらの行方』
- 第七話:『わたしと あそんで』
- 第六話:『三位一体』
- 第伍話:『雨と月』
- 第四話:『仮面の下の顔』
- 第参話:『背徳の智恵子抄』
- 第弐話:『花魁の美人画・裏を返す』
- 第壱話:『春の琴・指の感触』
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
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