「ウチのお店の人気メニュー、豆苗のニンニク炒め、塩味で味付けした
だけのシンプルな料理」
神保町の路地裏にある中華料理店『謝謝(シェシェー)』の
オーナーにして看板娘(!?)の周輝が言った。
真っ赤なチャイナドレスに身を包み、笑顔を絶やさない。
お客は店の料理と、周輝に逢いたくて、ここに通う。
涼川小夜子も、周輝のさっぱりした性格と、このお店の味付けが
好きだった。
「ねえ、周輝さん、美味しく中華を作るコツはなに?」
小夜子が尋ねる。
「そうね、やっぱり、強い火力。それから」
「それから?」
「炒め過ぎないことかな。炒め過ぎると、野菜がぺちゃんこになるから」
小夜子は、ふと、思う。
恋も、そうかな。相手を思う火力≠ェ何より大事だ。
激しいまでの情欲も『火力』のうち。
でも、その勢いにまかせて『炒め過ぎる』と、あっという間に心は、
ぺちゃんこになる。しなしなと生を失くす。
周輝は、中国河北省の出身。2000年に日本にやってきたが、
うまくなじめずに、一度故郷に帰った。
でも……やっぱり日本が忘れられずに、再来日。
今度は腰をすえて、店を出したいという願いを叶えた。
『謝謝』には、赤いお守りがぶら下がっている。つるし雛。
金魚がいる、福の字が揺れる。店に響くフライパンをかえす音、炒める音。
店を包む唐辛子とニンニクの香り、客の笑い声。
その中心に周輝がいる。彼女は四川、広東、美味しいものならなんでも
取り入れる。
彼女の存在に福が宿り、それが拡散し、常連客は絶えない。
いつか小夜子が聞いたことがあった。
「ねえ、周輝さん、あなたが大切にしている人生訓はなに?」
周輝は、しばらく天を仰ぎ、そして静かに答えた。
「真心をひとに渡すと、必ず帰ってくるってこと」
彼女が言うと、ストンと心の奥に落ちた。
「周輝さんは、ひとを好きになると、自分から告白するの?」
「無理無理、ぜったい、ないよ、それは。恥ずかしくて、自分からは
いけない。小夜子さんは?」
「私は…」
準の顔を思い浮かべる。
若き劇団員の準は、よく食べた。
体が細いのに、むしゃむしゃ食らう。決して行儀がいいとは言えない
食べ方。
それを見ながら、小夜子は思う。
「今夜、私は、この子に抱かれるんだろう」
準の口元を、エビチリソースがぬめぬめと汚す。
「うまいっすね、ここ。マジ、ハンパねえ」
金色の髪を汚れた手でかきあげようとするのを制する。
ウエットティッシュで拭いてあげる。
こんなこと、するんだ私、と自分でも意外な気持ちになった。
ベッドの上の姿を想像する。
彼の火力≠ヘ強いに違いない。
一直線に私を貫き、料理しようとするだろう。
でも、お願い、炒め過ぎないで。
私は、ぺちゃんこになってしまう。
ぺちゃんこになる前に、やめて。炒めるのを、やめて。
「小夜子さん、オレ、このあとバイトっす。じゃあ、すんません。
今夜は御馳走っす」
Pと書かれたキャップをかぶり、彼は去っていった。
ひとりテーブルに残った私に、周輝さんが水を持ってきてくれた。
「ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
「今日はふられたみたい」
「そうでもないみたいよ」
周輝さんがそう言ったとき、ガラガラと店の戸が開き、準が戻ってきた。
「オレ、やっぱ、今日、バイト休むっす」
謝謝
- 住所
- 神田神保町1-32-4 白石ビル
魅力的なひとだ。 全てを包み込むあったかい笑顔に癒される。 このお店に常連客が集うわけがわかった。 周輝さんは、決してでしゃばらない、いばらない。 控えめでいて、芯が強い。 その凜とした強さが美しさを支えている。 一緒にいるだけで、福が、やってきそうだ!
- 第百八話(最終回)『さくらが、濡れるとき』
- 第百七話『色、匂い、そして温かみ』(中華そば 伊峡)
- 第百六話『そこに、父が、いた。』(あたらくしあ)
- 第百伍話『元旦や、人間だけがあらたまる』(無用之用)
- 第百四話『ゆびではじいて、そう、小豆を、揺らして……』(無用之用)
- 第百参話『郡上の夜は、明けない』ナビブラ神保町
- 第百弐話『猫娘の舌ざわりと、一反木綿のうねり』明治大学米沢嘉博記念図書館
- 第百壱話『本能的な女と、壁をつくる男』(ARTイワタ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第九十九話『穴をふさぎ、穴を開く』(かふぇ あたらくしあ)
- 第九十八話『しっぽは、心をかくせない』(みわ書房)
- 第九十七話『手でやる? それとも道具を使う?』(ジェオ)
- 第九十六話『内なる奥底に取り込まれた蛍石のように』(薫風花乃堂)
- 第九十伍話『30秒、蒸らしてから……豆をほぐす』豆香房(神保町店)
- 第九十四話『落ちる実、もしくはだれでも一度は処女だった』(元)鶴谷洋服店
- 第九十参話『かきまわしたり、ときに刺したり、またかきまわしたり……』(桜日和)
- 第九十二話『ハートスナイパーは、ローズのつぼみを隠している』(CANDY BOUQUET)
- 第九十一話『あなたの、頑丈な、チューブが、私を、変える』ONNON(オンアンドオン)
- 第九十話『クリが、嫌い、でも、クリが、好き』ufu.(ウフ。)
- 第八十九話『太いギンポは、穴に入り、穴から出てくる』(しゃれこうべ)
- 第八十八話『沈み始めるまで、5秒以内』ワイン食堂 ChatGatto(シャガット)
- 第八十七話『金が光る、嫉妬の焔(ほのお)』(神田伯剌西爾)
- 第八十六話『最初は劣勢でも、巻き返せるときが来る』(共同書店PASSAGE)
- 第八十伍話『姿は見えなくても、確実にそこにいるもの』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第八十四話『だんだん、じょうぶに、なりました』(「澤口書店 巌松堂ビル店)
- 第八十参話『こぼれる、このままでは、こぼれてしまう』(あるまっぷCHIYODA)
- 第八十二話『的の中心を狙わず、穴に直接入れること』(HSTチャンネル)
- 第八十壱話『三つの穴を、埋めるもの』(大和屋履物店)
- 第八十話『運河のように、ひとという名の船が行き交う場所』(喫茶プペ)
- 第七十九話『澱が拡がる〜スノードームのように』(カフェ・トロワバグ)
- 第七十八話『空っぽなリンゴ箱の中に、たくさん詰まっているもの』BOOK SHOP無用之用
- 第七十七話『イルカのメロンは、ぷにゅぷにゅ話す』LAULE’A(ラウレア)
- 第七十六話『黒すぎる黒、白すぎる白』(文房堂)
- 第七十伍話『赤い旋律、ジャズの吐息』( JAZZ OLYMPUS!)
- 第七十四話『悶々、ホルモン……何度も転がして』(十勝ハーブ牛ホルモン MONMOM)
- 第七十参話『虞美人草の花の蜜』(おさんぽ神保町)
- 第七十二話『雄のリズム、雌のメロディ』(イリアフラメンコスタジオ)
- 第七十一話『屋根をつたう、しずく……』(加賀亭みなみ)
- 第七十話『左人差し指は、棹に対して、直角に……』(三味線と小物の店 音福)
- 第六十九話『凹凸が、織り成す色』(PRIMART/プライマート)
- 第六十八話『もちもちで、しっとりしているもの』(@ワンダー&ブックカフェ二十世紀)
- 第六十七話『入れる、入れないは、問題ではない』(リリパット/Book House Cafe)
- 第六十六話『象の鼻は、筋肉で出来ている』(バンコックコスモ食堂)
- 第六十伍話『箱のおもむき、骨のたしなみ』(三慶商店)
- 第六十四話『茹でたもの、蒸したもの、焼いたもの』(スヰートポーヅ)
- 第六十参話『男坂と女坂の、あいだにある坂』(男坂・女坂)
- 第六十弐話『路地裏の赤い哀しみ』(神田すずらん通り)
- 第六十壱話『マサラ〜混ざり合うということ』(インドレストラン マンダラ)
- 第六十話『男と女の点と線』(洋食膳 海カレー TAKEUCHI)
- 第伍十九話『桜と抹茶の間に揺れる』(庭のホテル 東京)
- 第伍十八話『メロンのようなカボチャが、口の中で溶ける』(気生根-Kifune)
- 第伍十七話『外はカリっと、エッグタルトのように』(ポルトガル菓子店「DOCE ESPIGA」)
- 第伍十六話『投げるひと、打つひと、それを見ているひと』(古書『ビブリオ』)
- 第伍十伍話『君によく似た柔らかい陽射し』(cafe&dinning『HORIZON』)
- 第伍十四話『漂流酒場で漂流する』(海文堂「漂流酒場」&「ランチカレー」)
- 第伍十参話『好きだったひとの、かほり』(神保町ブックセンター)
- 第伍十二話『ダナンの龍が火を噴くとき』(神保町「酔の助」)
- 第伍十壱話『アライグマの毛皮を着た男』(SOUP DELI)
- 第伍十話『こじれたひとが、好き』(虔十書林)
- 第四十九話『いつでも着替えられる状態にしておく』(ホワイトカレーと焼酎のお店「神田ゲレロ」)
- 第四十八話『ストレスは風味を落とし、色をくすませる』(flat Grill&Wine 神保町)
- 第四十七話『同じ場所で同じ風景をもう一度見ることは、できない』(カフェ ティシャーニ)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』(すごろくや)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』
- 第四十伍話『能面は、知っている』(書肆 山本店)
- 第四十四話『少女の羽は、夜、開く』(「珈琲舎 蔵」)
- 第四十参話『替え玉がついてくる、人生』(博多ラーメン「めんめん・かめぞう」)
- 第四十弐話『ゾウを飲み込んだ、ウワバミの哀しさ』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十壱話『混ざるほどに極みへ向かう……』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十話『鳥の目が、見ている……』(永森書店)
- 第参十九話『舌にのせて、味を楽しむ』(Bon Vivant)
- 第参十八話『自分の頭に、身を投げる』(らくごカフェ)
- 第参十七話『恋の温度、ふちの焦げ目』(pizzeria zio pippo)
- 第参十六話『太さと重さを手で測る』(金沢テニスショップ)
- 第参十伍話『猫の尻尾は、つかめない』(猫本専門 神保町にゃんこ堂)
- 第参十四話『入るとき、出ていくとき』(喫茶さぼうる)
- 第参十参話『もつの煮込みと、柔らかいそれ』(加賀亭みなみ)
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
- 第参十壱話『濡れた午後と、カフェオレの泡』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第参十話『三つの線が同時にそこにあるとき』(『お茶ナビゲート』)
- 第弐十九話『ゆっくり急げ』(雑貨『FESTINA LENTE』)
- 第弐十八話『男は、征服した女の寝乱れた顔を、見ている。』(hair&gallerybooks『moloco』)
- 第弐十七話『エックスであってNOではない』(サクラカフェ 神保町)
- 第弐十六話『妖精に出会う夜』(三省堂書店)
- 第弐十伍話『指は嘘をつかない』(神保町花月)
- 第弐十四話『炒め過ぎない』(謝謝)
- 第弐十参話『小さいけれど、精巧な何か』(呂古書房)
- 第弐十弐話:『Sに気づく夜』
- 第弐十壱話:『角度が大事』
- 第弐十話:『鳥は、鳥は、木に眠り』
- 第十九話:『夜の過ちを消せるペン』
- 第十八話:『南の島にいこうよ』
- 第十七話:『Jazzの夜に』
- 第十六話:『手触りの記憶』
- 第十五話:『顔を形作るもの』
- 第十四話:『ネバーエンディング・ストーリー』
- 第十参話:『万葉かるたのささやき』
- 第十二話:『茶色の下に隠れているもの』
- 第十一話:『煮込まない、寝かさない』
- 第十話:『消しゴムでも消せない匂い』
- 第仇話:『古書の香り、不思議の国』
- 第八話:『白い花びらの行方』
- 第七話:『わたしと あそんで』
- 第六話:『三位一体』
- 第伍話:『雨と月』
- 第四話:『仮面の下の顔』
- 第参話:『背徳の智恵子抄』
- 第弐話:『花魁の美人画・裏を返す』
- 第壱話:『春の琴・指の感触』
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
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