涼川小夜子には、ヘアカットについての持論があった。
「セックスのとき、どんなに乱れても、髪型がスタイリッシュであること」。
男に弄ばれ果てたとき、真っ白な頭のどこかで、ベッドの自分を
見ているもうひとりの自分がいる。
乱れた髪。台風のあとの木々の枝のように、あっちこっちに放たれた髪。
うまい美容師は、そんなときこそ真価を発揮する。
計算されたかのように流れるライン。自然にカットされた髪先。
男は、見ている。征服した女の寝乱れた顔を、見ている。
小夜子は、その瞬間でさえ、男に印象を植え付けたい。
「俺は美しい女を抱いた」。
そんな髪型を実現する美容師にようやく出会えた。
冨田絢香。
神保町にオープンして一年が経った、hair&gallerybooks『moloco』の
クリエイティブディレクターにして、最強のスタイリスト。
どんな角度から見ても美しいシルエットに、初めて訪れたときは、
感動して言葉を失った。
「こんなにセンスのいい美容師にあったことがない」
小夜子は思った。
久しぶりに、『moloco』のドアを開ける。
「ここはなんて居心地がいいんだろう…」
小夜子は店内を見渡す。
ブックカフェのようなオシャレな空間。それでいて、ひとをふわっと
包み込む雰囲気。店長、高橋祐司のセンスと優しさがあふれている。
本が並んでいる。
小夜子が今日、目にしたのは、『透明標本』という本だった。
いわばそれは、魚の骨の写真集。
特殊な薬品につけることで、
「筋肉を透明化し、軟骨を青く、硬骨を赤く染色する」
という骨格研究の手法を利用した写真が並ぶ。
骨が、意志を持っている。
シンプルになればなるほど、動きが出る。
恋愛もそうだなと小夜子はひとり思う。
シンプルに好きだという感情が浮き上がれば、どう動けばいいか、
自分の動きが決まってくる。
動けないときは、余計なものが邪魔をしている。
そんなときは、全てを溶かし、骨だけにしてみるのがいい。
『moloco』のもうひとりのスタッフ、高森真凜が、笑顔で席に
案内してくれた。
彼女の笑顔には嘘がない。透明度の高い、北海道の湖を連想する。
いつか真凜は、小夜子に話した。
「私は子どもの頃、『三匹の山羊のがらがらどん』という本が好きでした」。
あるところに、小さい山羊、中くらいの山羊、大きな山羊の
三匹の山羊がいた。名前は三匹とも、がらがらどん。
三匹は山の向うの美味しい草を食べに出かけた。
途中に橋がかかっていて、そこには魔物がいた。
まず小さい山羊が渡る。
「おまえを食べるぞ!」
魔物に言われた小さな山羊は言った。
「次に来る山羊は、ボクよりもっと大きいよ」
魔物は見逃し、中くらいの山羊に
「食べるぞ!」
中くらいの山羊は「次に来るのはボクよりもっと大きいよ」
魔物は見逃し、大きな山羊に
「食べちゃうぞ!」
しかし大きな山羊は、魔物に立ち向かい、やっつけた。
三匹のがらがらどんは、めでたく美味しい草にありついた。
三匹、同じ名前。ということは、誰の心にも三匹の山羊がいる。
人生は一回勝負ではない。最後の山羊が勝てばいい。
「ショートにして」
と小夜子は、絢香に告げた。
「思い切り、切って」
絢香は、手際よく、髪にハサミを入れた。
「どうして、絢香さんは、いつもそんなに前向きで、素敵な笑顔を
保てるの?」
小夜子が尋ねると、絢香は答えた。
「知らないこと、今の自分にできないことが、たくさんあるからです。
私はもっともっと、自分のステージを上げたいんです。新しい風景を
見たいから」
molocoとは、『時計じかけのオレンジ』という映画で主人公たちが
飲んでいた牛乳のような白い液体のことらしい。
小夜子は、シートに身を委ね、
目を閉じて、イメージの中の白い液体を飲み干し、
非現実の世界に吸い込まれていった。
hair&gallerybooks『moloco』
- 住所
- 神田小川町3-3-2 akimotoビル1F
- HP
- オフィシャル
モロコは、本当に居心地がよくてセンスのいい美容院。 それはそこで働いているひとの 心の優しさと豊かさから来ていることに気づく。 ちなみに、冨田さんの好きな男性のタイプは、 「何を考えているのか、わからないひと」らしい。 森の中の小鹿のような冨田さん、やっぱり笑顔が素敵です。
- 第百八話(最終回)『さくらが、濡れるとき』
- 第百七話『色、匂い、そして温かみ』(中華そば 伊峡)
- 第百六話『そこに、父が、いた。』(あたらくしあ)
- 第百伍話『元旦や、人間だけがあらたまる』(無用之用)
- 第百四話『ゆびではじいて、そう、小豆を、揺らして……』(無用之用)
- 第百参話『郡上の夜は、明けない』ナビブラ神保町
- 第百弐話『猫娘の舌ざわりと、一反木綿のうねり』明治大学米沢嘉博記念図書館
- 第百壱話『本能的な女と、壁をつくる男』(ARTイワタ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第九十九話『穴をふさぎ、穴を開く』(かふぇ あたらくしあ)
- 第九十八話『しっぽは、心をかくせない』(みわ書房)
- 第九十七話『手でやる? それとも道具を使う?』(ジェオ)
- 第九十六話『内なる奥底に取り込まれた蛍石のように』(薫風花乃堂)
- 第九十伍話『30秒、蒸らしてから……豆をほぐす』豆香房(神保町店)
- 第九十四話『落ちる実、もしくはだれでも一度は処女だった』(元)鶴谷洋服店
- 第九十参話『かきまわしたり、ときに刺したり、またかきまわしたり……』(桜日和)
- 第九十二話『ハートスナイパーは、ローズのつぼみを隠している』(CANDY BOUQUET)
- 第九十一話『あなたの、頑丈な、チューブが、私を、変える』ONNON(オンアンドオン)
- 第九十話『クリが、嫌い、でも、クリが、好き』ufu.(ウフ。)
- 第八十九話『太いギンポは、穴に入り、穴から出てくる』(しゃれこうべ)
- 第八十八話『沈み始めるまで、5秒以内』ワイン食堂 ChatGatto(シャガット)
- 第八十七話『金が光る、嫉妬の焔(ほのお)』(神田伯剌西爾)
- 第八十六話『最初は劣勢でも、巻き返せるときが来る』(共同書店PASSAGE)
- 第八十伍話『姿は見えなくても、確実にそこにいるもの』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第八十四話『だんだん、じょうぶに、なりました』(「澤口書店 巌松堂ビル店)
- 第八十参話『こぼれる、このままでは、こぼれてしまう』(あるまっぷCHIYODA)
- 第八十二話『的の中心を狙わず、穴に直接入れること』(HSTチャンネル)
- 第八十壱話『三つの穴を、埋めるもの』(大和屋履物店)
- 第八十話『運河のように、ひとという名の船が行き交う場所』(喫茶プペ)
- 第七十九話『澱が拡がる〜スノードームのように』(カフェ・トロワバグ)
- 第七十八話『空っぽなリンゴ箱の中に、たくさん詰まっているもの』BOOK SHOP無用之用
- 第七十七話『イルカのメロンは、ぷにゅぷにゅ話す』LAULE’A(ラウレア)
- 第七十六話『黒すぎる黒、白すぎる白』(文房堂)
- 第七十伍話『赤い旋律、ジャズの吐息』( JAZZ OLYMPUS!)
- 第七十四話『悶々、ホルモン……何度も転がして』(十勝ハーブ牛ホルモン MONMOM)
- 第七十参話『虞美人草の花の蜜』(おさんぽ神保町)
- 第七十二話『雄のリズム、雌のメロディ』(イリアフラメンコスタジオ)
- 第七十一話『屋根をつたう、しずく……』(加賀亭みなみ)
- 第七十話『左人差し指は、棹に対して、直角に……』(三味線と小物の店 音福)
- 第六十九話『凹凸が、織り成す色』(PRIMART/プライマート)
- 第六十八話『もちもちで、しっとりしているもの』(@ワンダー&ブックカフェ二十世紀)
- 第六十七話『入れる、入れないは、問題ではない』(リリパット/Book House Cafe)
- 第六十六話『象の鼻は、筋肉で出来ている』(バンコックコスモ食堂)
- 第六十伍話『箱のおもむき、骨のたしなみ』(三慶商店)
- 第六十四話『茹でたもの、蒸したもの、焼いたもの』(スヰートポーヅ)
- 第六十参話『男坂と女坂の、あいだにある坂』(男坂・女坂)
- 第六十弐話『路地裏の赤い哀しみ』(神田すずらん通り)
- 第六十壱話『マサラ〜混ざり合うということ』(インドレストラン マンダラ)
- 第六十話『男と女の点と線』(洋食膳 海カレー TAKEUCHI)
- 第伍十九話『桜と抹茶の間に揺れる』(庭のホテル 東京)
- 第伍十八話『メロンのようなカボチャが、口の中で溶ける』(気生根-Kifune)
- 第伍十七話『外はカリっと、エッグタルトのように』(ポルトガル菓子店「DOCE ESPIGA」)
- 第伍十六話『投げるひと、打つひと、それを見ているひと』(古書『ビブリオ』)
- 第伍十伍話『君によく似た柔らかい陽射し』(cafe&dinning『HORIZON』)
- 第伍十四話『漂流酒場で漂流する』(海文堂「漂流酒場」&「ランチカレー」)
- 第伍十参話『好きだったひとの、かほり』(神保町ブックセンター)
- 第伍十二話『ダナンの龍が火を噴くとき』(神保町「酔の助」)
- 第伍十壱話『アライグマの毛皮を着た男』(SOUP DELI)
- 第伍十話『こじれたひとが、好き』(虔十書林)
- 第四十九話『いつでも着替えられる状態にしておく』(ホワイトカレーと焼酎のお店「神田ゲレロ」)
- 第四十八話『ストレスは風味を落とし、色をくすませる』(flat Grill&Wine 神保町)
- 第四十七話『同じ場所で同じ風景をもう一度見ることは、できない』(カフェ ティシャーニ)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』(すごろくや)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』
- 第四十伍話『能面は、知っている』(書肆 山本店)
- 第四十四話『少女の羽は、夜、開く』(「珈琲舎 蔵」)
- 第四十参話『替え玉がついてくる、人生』(博多ラーメン「めんめん・かめぞう」)
- 第四十弐話『ゾウを飲み込んだ、ウワバミの哀しさ』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十壱話『混ざるほどに極みへ向かう……』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十話『鳥の目が、見ている……』(永森書店)
- 第参十九話『舌にのせて、味を楽しむ』(Bon Vivant)
- 第参十八話『自分の頭に、身を投げる』(らくごカフェ)
- 第参十七話『恋の温度、ふちの焦げ目』(pizzeria zio pippo)
- 第参十六話『太さと重さを手で測る』(金沢テニスショップ)
- 第参十伍話『猫の尻尾は、つかめない』(猫本専門 神保町にゃんこ堂)
- 第参十四話『入るとき、出ていくとき』(喫茶さぼうる)
- 第参十参話『もつの煮込みと、柔らかいそれ』(加賀亭みなみ)
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
- 第参十壱話『濡れた午後と、カフェオレの泡』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第参十話『三つの線が同時にそこにあるとき』(『お茶ナビゲート』)
- 第弐十九話『ゆっくり急げ』(雑貨『FESTINA LENTE』)
- 第弐十八話『男は、征服した女の寝乱れた顔を、見ている。』(hair&gallerybooks『moloco』)
- 第弐十七話『エックスであってNOではない』(サクラカフェ 神保町)
- 第弐十六話『妖精に出会う夜』(三省堂書店)
- 第弐十伍話『指は嘘をつかない』(神保町花月)
- 第弐十四話『炒め過ぎない』(謝謝)
- 第弐十参話『小さいけれど、精巧な何か』(呂古書房)
- 第弐十弐話:『Sに気づく夜』
- 第弐十壱話:『角度が大事』
- 第弐十話:『鳥は、鳥は、木に眠り』
- 第十九話:『夜の過ちを消せるペン』
- 第十八話:『南の島にいこうよ』
- 第十七話:『Jazzの夜に』
- 第十六話:『手触りの記憶』
- 第十五話:『顔を形作るもの』
- 第十四話:『ネバーエンディング・ストーリー』
- 第十参話:『万葉かるたのささやき』
- 第十二話:『茶色の下に隠れているもの』
- 第十一話:『煮込まない、寝かさない』
- 第十話:『消しゴムでも消せない匂い』
- 第仇話:『古書の香り、不思議の国』
- 第八話:『白い花びらの行方』
- 第七話:『わたしと あそんで』
- 第六話:『三位一体』
- 第伍話:『雨と月』
- 第四話:『仮面の下の顔』
- 第参話:『背徳の智恵子抄』
- 第弐話:『花魁の美人画・裏を返す』
- 第壱話:『春の琴・指の感触』
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
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