「どうして、こんなに濡れてるの?」
家弓琢磨の声が、響く。
「ごめんなさい」
涼川小夜子は、素直にあやまる。
「びちゃびちゃじゃないですか」
「ほんとに……こんなに濡れたの、何年ぶりかな」
そこで家弓は、小夜子を事務所の中に引き入れた。
彼女は、冷たい秋雨の中、傘もささずに彼の事務所を訪ねたのだ。
神保町の雑居ビル。家弓がようやく自分の事務所を持った。
お祝いに駆け付けたのだが、途中で豪雨に遭遇。
小夜子は、かまわず、濡れた。
奥に引っ込んだ家弓が、白いバスタオルを持って戻ってくる。
小夜子の頭をゴシゴシと拭く。
「痛い、もっと丁寧にして」
「ごめんなさい」
小夜子は、思い出していた。
幼い頃、母親にたくさん心配してほしくて、わざと雨に濡れて帰った
午後のことを。
「からだ、震えているじゃないですか……。寒いんですね」
やはり、家弓の声は、下半身に響く。
二人で、「ギャラリー珈琲店 古瀬戸」に入った。
店内を埋め尽くす壁画。まるで海の底のような、まるで深い森のような
雰囲気。
抑えた照明にホッとする。
「僕の事務所には珈琲ひとつなくて、すみません。あったかいもの、
飲んでください」
「はい」
素直に言ってみた。
「いらっしゃいませ、小夜子さん」
アルバイトの渡部有希がテーブルにやってきた。ぱっと華が咲いたような空気になる。
古瀬戸は、小夜子が心を沈めるために訪れる場所。そんな彼女の気配を
瞬時に察してくれるのが、有希だった。
放っておいて欲しい時はあまり話しかけず、誰かと言葉を交わしたいときには、大学の話をしてくれる。
有希は、もともと本、それも古書が好きで、高校時代から神保町に
通っていた。
古い本の匂いと紙の質感に出合うために、この街に魅かれ、
ついにはバイトをする場所もここにした。
大学では日本文学を学び、演劇もやっている。
白くて綺麗な顔、森の中に凜と咲く百合のような佇まい。
小夜子は、歴代の彼氏を、彼女に見せてきた。
「私は、カフェオレを」
「僕は、ブレンドを」
注文を聞いた有希は、爽やかな笑みを残して、立ち去った。
「新しい事務所を持つって、どんな気分ですか?」
小夜子が尋ねる。
「デザイン事務所を、自分で持てるなんて、少なくとも三年前には思いもしませんでした」
「どうして?」
「ちょうど、三年前の、そう、いまくらいの季節。結婚しようと思ってた彼女にフラれて…。
で、まあ、ここがめっちゃ短絡的というか、ステレオタイプなんですが、インドに、ひとり旅に出かけたんです。
笑っちゃいますよね、女にフラれて、インド。
ほんと、インドに申し訳ない。
デリーに着いたら、いきなりバッグを盗まれて…」
小夜子は、視線は外さずに、ただ家弓の声を聴いていた。
彼は、彼女の心を覗き込むことも忘れて、ひたすらインドの話を続けた。
「私は、きっと、このあと、この男に抱かれるんだろう…。
この唇で体を舐めまわされるんだろう。
この指で苛められるんだろう。
この腕で抱きしめられ…身動きできずに」
小夜子は、家弓をただ、見ていた。
「でね、そのとき、どうしたと思います? 僕は」
いきなり質問されて、小夜子は我に返る。
「え? どうしたの? 全然、想像つかない」
「川に飛び込んだんですよ。はははは」
「そうなんだ、へえ、川にねえ…信じられない」
「でしょ。いや、僕も自分で驚きました」
そこへ、有希がやってきた。
「お待たせしました。カフェオレと、ブレンド、です」
「ありがとう」
家弓が、よそゆきの声で言った。
小夜子は、カフェオレの泡を、見つめた。
いますぐ、裸になり、その泡の中で家弓と戯れたいと、思った。
『ギャラリー珈琲店 古瀬戸』
- 住所
- 神田神保町1-7 NSEビル1F
- HP
- ナビブラDB
有希さんの耳に、素敵なイヤリングがあった。 お母さんが好きなカメオ。可愛い耳に似合っていた。 背筋がピンとしていて、目線が真っすぐ。 これからが楽しみな大学生だ。 本が好きな彼女は、 神保町で働くことが嬉しくてたまらないようだ。 彼女に会うために古瀬戸に通うひとは多いに違いない。
- 第百八話(最終回)『さくらが、濡れるとき』
- 第百七話『色、匂い、そして温かみ』(中華そば 伊峡)
- 第百六話『そこに、父が、いた。』(あたらくしあ)
- 第百伍話『元旦や、人間だけがあらたまる』(無用之用)
- 第百四話『ゆびではじいて、そう、小豆を、揺らして……』(無用之用)
- 第百参話『郡上の夜は、明けない』ナビブラ神保町
- 第百弐話『猫娘の舌ざわりと、一反木綿のうねり』明治大学米沢嘉博記念図書館
- 第百壱話『本能的な女と、壁をつくる男』(ARTイワタ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第九十九話『穴をふさぎ、穴を開く』(かふぇ あたらくしあ)
- 第九十八話『しっぽは、心をかくせない』(みわ書房)
- 第九十七話『手でやる? それとも道具を使う?』(ジェオ)
- 第九十六話『内なる奥底に取り込まれた蛍石のように』(薫風花乃堂)
- 第九十伍話『30秒、蒸らしてから……豆をほぐす』豆香房(神保町店)
- 第九十四話『落ちる実、もしくはだれでも一度は処女だった』(元)鶴谷洋服店
- 第九十参話『かきまわしたり、ときに刺したり、またかきまわしたり……』(桜日和)
- 第九十二話『ハートスナイパーは、ローズのつぼみを隠している』(CANDY BOUQUET)
- 第九十一話『あなたの、頑丈な、チューブが、私を、変える』ONNON(オンアンドオン)
- 第九十話『クリが、嫌い、でも、クリが、好き』ufu.(ウフ。)
- 第八十九話『太いギンポは、穴に入り、穴から出てくる』(しゃれこうべ)
- 第八十八話『沈み始めるまで、5秒以内』ワイン食堂 ChatGatto(シャガット)
- 第八十七話『金が光る、嫉妬の焔(ほのお)』(神田伯剌西爾)
- 第八十六話『最初は劣勢でも、巻き返せるときが来る』(共同書店PASSAGE)
- 第八十伍話『姿は見えなくても、確実にそこにいるもの』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第八十四話『だんだん、じょうぶに、なりました』(「澤口書店 巌松堂ビル店)
- 第八十参話『こぼれる、このままでは、こぼれてしまう』(あるまっぷCHIYODA)
- 第八十二話『的の中心を狙わず、穴に直接入れること』(HSTチャンネル)
- 第八十壱話『三つの穴を、埋めるもの』(大和屋履物店)
- 第八十話『運河のように、ひとという名の船が行き交う場所』(喫茶プペ)
- 第七十九話『澱が拡がる〜スノードームのように』(カフェ・トロワバグ)
- 第七十八話『空っぽなリンゴ箱の中に、たくさん詰まっているもの』BOOK SHOP無用之用
- 第七十七話『イルカのメロンは、ぷにゅぷにゅ話す』LAULE’A(ラウレア)
- 第七十六話『黒すぎる黒、白すぎる白』(文房堂)
- 第七十伍話『赤い旋律、ジャズの吐息』( JAZZ OLYMPUS!)
- 第七十四話『悶々、ホルモン……何度も転がして』(十勝ハーブ牛ホルモン MONMOM)
- 第七十参話『虞美人草の花の蜜』(おさんぽ神保町)
- 第七十二話『雄のリズム、雌のメロディ』(イリアフラメンコスタジオ)
- 第七十一話『屋根をつたう、しずく……』(加賀亭みなみ)
- 第七十話『左人差し指は、棹に対して、直角に……』(三味線と小物の店 音福)
- 第六十九話『凹凸が、織り成す色』(PRIMART/プライマート)
- 第六十八話『もちもちで、しっとりしているもの』(@ワンダー&ブックカフェ二十世紀)
- 第六十七話『入れる、入れないは、問題ではない』(リリパット/Book House Cafe)
- 第六十六話『象の鼻は、筋肉で出来ている』(バンコックコスモ食堂)
- 第六十伍話『箱のおもむき、骨のたしなみ』(三慶商店)
- 第六十四話『茹でたもの、蒸したもの、焼いたもの』(スヰートポーヅ)
- 第六十参話『男坂と女坂の、あいだにある坂』(男坂・女坂)
- 第六十弐話『路地裏の赤い哀しみ』(神田すずらん通り)
- 第六十壱話『マサラ〜混ざり合うということ』(インドレストラン マンダラ)
- 第六十話『男と女の点と線』(洋食膳 海カレー TAKEUCHI)
- 第伍十九話『桜と抹茶の間に揺れる』(庭のホテル 東京)
- 第伍十八話『メロンのようなカボチャが、口の中で溶ける』(気生根-Kifune)
- 第伍十七話『外はカリっと、エッグタルトのように』(ポルトガル菓子店「DOCE ESPIGA」)
- 第伍十六話『投げるひと、打つひと、それを見ているひと』(古書『ビブリオ』)
- 第伍十伍話『君によく似た柔らかい陽射し』(cafe&dinning『HORIZON』)
- 第伍十四話『漂流酒場で漂流する』(海文堂「漂流酒場」&「ランチカレー」)
- 第伍十参話『好きだったひとの、かほり』(神保町ブックセンター)
- 第伍十二話『ダナンの龍が火を噴くとき』(神保町「酔の助」)
- 第伍十壱話『アライグマの毛皮を着た男』(SOUP DELI)
- 第伍十話『こじれたひとが、好き』(虔十書林)
- 第四十九話『いつでも着替えられる状態にしておく』(ホワイトカレーと焼酎のお店「神田ゲレロ」)
- 第四十八話『ストレスは風味を落とし、色をくすませる』(flat Grill&Wine 神保町)
- 第四十七話『同じ場所で同じ風景をもう一度見ることは、できない』(カフェ ティシャーニ)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』(すごろくや)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』
- 第四十伍話『能面は、知っている』(書肆 山本店)
- 第四十四話『少女の羽は、夜、開く』(「珈琲舎 蔵」)
- 第四十参話『替え玉がついてくる、人生』(博多ラーメン「めんめん・かめぞう」)
- 第四十弐話『ゾウを飲み込んだ、ウワバミの哀しさ』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十壱話『混ざるほどに極みへ向かう……』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十話『鳥の目が、見ている……』(永森書店)
- 第参十九話『舌にのせて、味を楽しむ』(Bon Vivant)
- 第参十八話『自分の頭に、身を投げる』(らくごカフェ)
- 第参十七話『恋の温度、ふちの焦げ目』(pizzeria zio pippo)
- 第参十六話『太さと重さを手で測る』(金沢テニスショップ)
- 第参十伍話『猫の尻尾は、つかめない』(猫本専門 神保町にゃんこ堂)
- 第参十四話『入るとき、出ていくとき』(喫茶さぼうる)
- 第参十参話『もつの煮込みと、柔らかいそれ』(加賀亭みなみ)
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
- 第参十壱話『濡れた午後と、カフェオレの泡』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第参十話『三つの線が同時にそこにあるとき』(『お茶ナビゲート』)
- 第弐十九話『ゆっくり急げ』(雑貨『FESTINA LENTE』)
- 第弐十八話『男は、征服した女の寝乱れた顔を、見ている。』(hair&gallerybooks『moloco』)
- 第弐十七話『エックスであってNOではない』(サクラカフェ 神保町)
- 第弐十六話『妖精に出会う夜』(三省堂書店)
- 第弐十伍話『指は嘘をつかない』(神保町花月)
- 第弐十四話『炒め過ぎない』(謝謝)
- 第弐十参話『小さいけれど、精巧な何か』(呂古書房)
- 第弐十弐話:『Sに気づく夜』
- 第弐十壱話:『角度が大事』
- 第弐十話:『鳥は、鳥は、木に眠り』
- 第十九話:『夜の過ちを消せるペン』
- 第十八話:『南の島にいこうよ』
- 第十七話:『Jazzの夜に』
- 第十六話:『手触りの記憶』
- 第十五話:『顔を形作るもの』
- 第十四話:『ネバーエンディング・ストーリー』
- 第十参話:『万葉かるたのささやき』
- 第十二話:『茶色の下に隠れているもの』
- 第十一話:『煮込まない、寝かさない』
- 第十話:『消しゴムでも消せない匂い』
- 第仇話:『古書の香り、不思議の国』
- 第八話:『白い花びらの行方』
- 第七話:『わたしと あそんで』
- 第六話:『三位一体』
- 第伍話:『雨と月』
- 第四話:『仮面の下の顔』
- 第参話:『背徳の智恵子抄』
- 第弐話:『花魁の美人画・裏を返す』
- 第壱話:『春の琴・指の感触』
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
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