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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第参十参話『もつの煮込みと、柔らかいそれ』

「物静かなひとがいいって思って旦那と結婚したんだけどねえ、
ただ、口下手なだけだったわよ」
『加賀亭みなみ』の女将、いや、ママは笑顔で言った。
ここは、神保町の路地裏にある、居酒屋。
赤いちょうちんがぶら下がり、40年も続く店のたたずまいに、
そこで過ごしたひとたちの思いが沁み込んでいる。
涼川小夜子は、このお店が大好きだ。
ほっこりできる雰囲気を作るのは、店の昭和な香りだけではない。
厨房にいる、南出雅子さん、そして義妹の春美さん、
二人の柔らかい笑顔が、やってくるひとをあたたかく迎える。
雅子さんの旦那さんが、客が注文したホッピーを用意している。
(長年連れ添うって、どういうことなんだろう)
ふと、小夜子は思う。
夫婦は似てくるというけれど、雅子さんと旦那さんの間には、
他人には決してわからない共通の言葉、サインが
あるように思えてならない。
無口な旦那さんの気持ちが、雅子さんには、わかるのだろう…。
もつ煮込みがやってきた。
柔らかい。こんなに美味しいもつ煮は、他では食べられない。

小夜子は、おとといの家弓琢磨との情事を思い出していた。
「なんか、小夜子さん、いいことあった?」
雅子ママに訊かれる。
「え?どうして?」
「いやねえ、なんか、うれしそうだから」
「そうね……いいこと、あったかな」
琢磨のそれは、役に立たなかった。

「柔らかいよなあ……ね、柔らかいのはうれしいですよね」
いきなり話しかけられた。カウンターの隣で飲んでいた、
年配のサラリーマン。
ネクタイは緩み、赤ら顔だ。
「え?」
「あ、いや、このもつ、ほんと、柔らかいですよね」
「ああ、そうですね」

役に立たないとき、男性は、二つに分かれる。
焦るか、焦らないか。
「あれ、おかしいな、どうしたんだろう。飲み過ぎたかなあ」と
この世の絶望を全て背負ったように哀しい表情になるひと。
すっかり気持ちを入れ替えて、「ああ、なんか今夜はダメだ」と
笑顔になるひと。
琢磨は、前者だった。
いつもはあんなに冷静で余裕があるように見えるのに、
焦った。
「おっかっしいなあ」つぶやく声が聴こえた。
小夜子は、そんな琢磨を、愛おしく思っている自分に気が付いた。
意外な感じもあった。
かつて、同じようなことに遭遇したとき、言い訳がましい男に、
腹が立ったこともあった。「なに?それって、私のせいだっていうの?」

「いいの、こうしてくっついていて…」
小夜子がそういうと、安心した子犬のように、琢磨は胸に顔をうずめた。

「こんなことも、あるんだなあ」
隣のサラリーマンがつぶやく。
「え?」
「あ、いや、見て下さい。あなたと私、頼んだものが全部、一緒だ」
「ほんと」
「私はねえ、このお店が純喫茶だったころから、
お世話になっているんですよ。
学生のときね、よく朝までここで飲んで、あそこのテーブル席の椅子に
寝っ転がって…」
男性は、愛おしそうに店内の隅を指さした。
「大学の山岳部のたまり場だったんです。ね?ママさん」
そう話題をふられて、ママはニッコリ笑った。
「もう大変だった、みんな酔っぱらって…」

(琢磨に会いたい。いますぐ、会いたい)
小夜子は、衝動を抑えきれなかった。
スマホに手をかけると、待ち構えていたように指先が動いた。

「あ、小夜子さん、いま、ちょうどあなたのことを考えていました」

小夜子の体を言いようのない痺れが走った。


『加賀亭みなみ』

『加賀亭みなみ』

住所
神田神保町1-14
HP
ナビブラDB

『ホッピーを持つ、雅子さんの手』

とにかく、出て来る料理が、美味しい!もつ煮もいいけれど、 かしらニンニク和え、特製ホルモン焼きも絶品!
雅子さんと春美さんの笑顔に会いたくて、 今日もたくさんのサラリーマンやOLさんが詰めかける。
雅子さんはアガサクリスティが好き。春美さんは横溝正史が好き。
なぜ、ミステリー?
厨房の向こうから、さまざまな人物を観察してきたから、 探偵になれるかもしれない。