「物静かなひとがいいって思って旦那と結婚したんだけどねえ、
ただ、口下手なだけだったわよ」
『加賀亭みなみ』の女将、いや、ママは笑顔で言った。
ここは、神保町の路地裏にある、居酒屋。
赤いちょうちんがぶら下がり、40年も続く店のたたずまいに、
そこで過ごしたひとたちの思いが沁み込んでいる。
涼川小夜子は、このお店が大好きだ。
ほっこりできる雰囲気を作るのは、店の昭和な香りだけではない。
厨房にいる、南出雅子さん、そして義妹の春美さん、
二人の柔らかい笑顔が、やってくるひとをあたたかく迎える。
雅子さんの旦那さんが、客が注文したホッピーを用意している。
(長年連れ添うって、どういうことなんだろう)
ふと、小夜子は思う。
夫婦は似てくるというけれど、雅子さんと旦那さんの間には、
他人には決してわからない共通の言葉、サインが
あるように思えてならない。
無口な旦那さんの気持ちが、雅子さんには、わかるのだろう…。
もつ煮込みがやってきた。
柔らかい。こんなに美味しいもつ煮は、他では食べられない。
小夜子は、おとといの家弓琢磨との情事を思い出していた。
「なんか、小夜子さん、いいことあった?」
雅子ママに訊かれる。
「え?どうして?」
「いやねえ、なんか、うれしそうだから」
「そうね……いいこと、あったかな」
琢磨のそれは、役に立たなかった。
「柔らかいよなあ……ね、柔らかいのはうれしいですよね」
いきなり話しかけられた。カウンターの隣で飲んでいた、
年配のサラリーマン。
ネクタイは緩み、赤ら顔だ。
「え?」
「あ、いや、このもつ、ほんと、柔らかいですよね」
「ああ、そうですね」
役に立たないとき、男性は、二つに分かれる。
焦るか、焦らないか。
「あれ、おかしいな、どうしたんだろう。飲み過ぎたかなあ」と
この世の絶望を全て背負ったように哀しい表情になるひと。
すっかり気持ちを入れ替えて、「ああ、なんか今夜はダメだ」と
笑顔になるひと。
琢磨は、前者だった。
いつもはあんなに冷静で余裕があるように見えるのに、
焦った。
「おっかっしいなあ」つぶやく声が聴こえた。
小夜子は、そんな琢磨を、愛おしく思っている自分に気が付いた。
意外な感じもあった。
かつて、同じようなことに遭遇したとき、言い訳がましい男に、
腹が立ったこともあった。「なに?それって、私のせいだっていうの?」
「いいの、こうしてくっついていて…」
小夜子がそういうと、安心した子犬のように、琢磨は胸に顔をうずめた。
「こんなことも、あるんだなあ」
隣のサラリーマンがつぶやく。
「え?」
「あ、いや、見て下さい。あなたと私、頼んだものが全部、一緒だ」
「ほんと」
「私はねえ、このお店が純喫茶だったころから、
お世話になっているんですよ。
学生のときね、よく朝までここで飲んで、あそこのテーブル席の椅子に
寝っ転がって…」
男性は、愛おしそうに店内の隅を指さした。
「大学の山岳部のたまり場だったんです。ね?ママさん」
そう話題をふられて、ママはニッコリ笑った。
「もう大変だった、みんな酔っぱらって…」
(琢磨に会いたい。いますぐ、会いたい)
小夜子は、衝動を抑えきれなかった。
スマホに手をかけると、待ち構えていたように指先が動いた。
「あ、小夜子さん、いま、ちょうどあなたのことを考えていました」
小夜子の体を言いようのない痺れが走った。
『加賀亭みなみ』
- 住所
- 神田神保町1-14
- HP
- ナビブラDB
とにかく、出て来る料理が、美味しい!もつ煮もいいけれど、
かしらニンニク和え、特製ホルモン焼きも絶品!
雅子さんと春美さんの笑顔に会いたくて、
今日もたくさんのサラリーマンやOLさんが詰めかける。
雅子さんはアガサクリスティが好き。春美さんは横溝正史が好き。
なぜ、ミステリー?
厨房の向こうから、さまざまな人物を観察してきたから、
探偵になれるかもしれない。
- 第百八話(最終回)『さくらが、濡れるとき』
- 第百七話『色、匂い、そして温かみ』(中華そば 伊峡)
- 第百六話『そこに、父が、いた。』(あたらくしあ)
- 第百伍話『元旦や、人間だけがあらたまる』(無用之用)
- 第百四話『ゆびではじいて、そう、小豆を、揺らして……』(無用之用)
- 第百参話『郡上の夜は、明けない』ナビブラ神保町
- 第百弐話『猫娘の舌ざわりと、一反木綿のうねり』明治大学米沢嘉博記念図書館
- 第百壱話『本能的な女と、壁をつくる男』(ARTイワタ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第九十九話『穴をふさぎ、穴を開く』(かふぇ あたらくしあ)
- 第九十八話『しっぽは、心をかくせない』(みわ書房)
- 第九十七話『手でやる? それとも道具を使う?』(ジェオ)
- 第九十六話『内なる奥底に取り込まれた蛍石のように』(薫風花乃堂)
- 第九十伍話『30秒、蒸らしてから……豆をほぐす』豆香房(神保町店)
- 第九十四話『落ちる実、もしくはだれでも一度は処女だった』(元)鶴谷洋服店
- 第九十参話『かきまわしたり、ときに刺したり、またかきまわしたり……』(桜日和)
- 第九十二話『ハートスナイパーは、ローズのつぼみを隠している』(CANDY BOUQUET)
- 第九十一話『あなたの、頑丈な、チューブが、私を、変える』ONNON(オンアンドオン)
- 第九十話『クリが、嫌い、でも、クリが、好き』ufu.(ウフ。)
- 第八十九話『太いギンポは、穴に入り、穴から出てくる』(しゃれこうべ)
- 第八十八話『沈み始めるまで、5秒以内』ワイン食堂 ChatGatto(シャガット)
- 第八十七話『金が光る、嫉妬の焔(ほのお)』(神田伯剌西爾)
- 第八十六話『最初は劣勢でも、巻き返せるときが来る』(共同書店PASSAGE)
- 第八十伍話『姿は見えなくても、確実にそこにいるもの』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第八十四話『だんだん、じょうぶに、なりました』(「澤口書店 巌松堂ビル店)
- 第八十参話『こぼれる、このままでは、こぼれてしまう』(あるまっぷCHIYODA)
- 第八十二話『的の中心を狙わず、穴に直接入れること』(HSTチャンネル)
- 第八十壱話『三つの穴を、埋めるもの』(大和屋履物店)
- 第八十話『運河のように、ひとという名の船が行き交う場所』(喫茶プペ)
- 第七十九話『澱が拡がる〜スノードームのように』(カフェ・トロワバグ)
- 第七十八話『空っぽなリンゴ箱の中に、たくさん詰まっているもの』BOOK SHOP無用之用
- 第七十七話『イルカのメロンは、ぷにゅぷにゅ話す』LAULE’A(ラウレア)
- 第七十六話『黒すぎる黒、白すぎる白』(文房堂)
- 第七十伍話『赤い旋律、ジャズの吐息』( JAZZ OLYMPUS!)
- 第七十四話『悶々、ホルモン……何度も転がして』(十勝ハーブ牛ホルモン MONMOM)
- 第七十参話『虞美人草の花の蜜』(おさんぽ神保町)
- 第七十二話『雄のリズム、雌のメロディ』(イリアフラメンコスタジオ)
- 第七十一話『屋根をつたう、しずく……』(加賀亭みなみ)
- 第七十話『左人差し指は、棹に対して、直角に……』(三味線と小物の店 音福)
- 第六十九話『凹凸が、織り成す色』(PRIMART/プライマート)
- 第六十八話『もちもちで、しっとりしているもの』(@ワンダー&ブックカフェ二十世紀)
- 第六十七話『入れる、入れないは、問題ではない』(リリパット/Book House Cafe)
- 第六十六話『象の鼻は、筋肉で出来ている』(バンコックコスモ食堂)
- 第六十伍話『箱のおもむき、骨のたしなみ』(三慶商店)
- 第六十四話『茹でたもの、蒸したもの、焼いたもの』(スヰートポーヅ)
- 第六十参話『男坂と女坂の、あいだにある坂』(男坂・女坂)
- 第六十弐話『路地裏の赤い哀しみ』(神田すずらん通り)
- 第六十壱話『マサラ〜混ざり合うということ』(インドレストラン マンダラ)
- 第六十話『男と女の点と線』(洋食膳 海カレー TAKEUCHI)
- 第伍十九話『桜と抹茶の間に揺れる』(庭のホテル 東京)
- 第伍十八話『メロンのようなカボチャが、口の中で溶ける』(気生根-Kifune)
- 第伍十七話『外はカリっと、エッグタルトのように』(ポルトガル菓子店「DOCE ESPIGA」)
- 第伍十六話『投げるひと、打つひと、それを見ているひと』(古書『ビブリオ』)
- 第伍十伍話『君によく似た柔らかい陽射し』(cafe&dinning『HORIZON』)
- 第伍十四話『漂流酒場で漂流する』(海文堂「漂流酒場」&「ランチカレー」)
- 第伍十参話『好きだったひとの、かほり』(神保町ブックセンター)
- 第伍十二話『ダナンの龍が火を噴くとき』(神保町「酔の助」)
- 第伍十壱話『アライグマの毛皮を着た男』(SOUP DELI)
- 第伍十話『こじれたひとが、好き』(虔十書林)
- 第四十九話『いつでも着替えられる状態にしておく』(ホワイトカレーと焼酎のお店「神田ゲレロ」)
- 第四十八話『ストレスは風味を落とし、色をくすませる』(flat Grill&Wine 神保町)
- 第四十七話『同じ場所で同じ風景をもう一度見ることは、できない』(カフェ ティシャーニ)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』(すごろくや)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』
- 第四十伍話『能面は、知っている』(書肆 山本店)
- 第四十四話『少女の羽は、夜、開く』(「珈琲舎 蔵」)
- 第四十参話『替え玉がついてくる、人生』(博多ラーメン「めんめん・かめぞう」)
- 第四十弐話『ゾウを飲み込んだ、ウワバミの哀しさ』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十壱話『混ざるほどに極みへ向かう……』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十話『鳥の目が、見ている……』(永森書店)
- 第参十九話『舌にのせて、味を楽しむ』(Bon Vivant)
- 第参十八話『自分の頭に、身を投げる』(らくごカフェ)
- 第参十七話『恋の温度、ふちの焦げ目』(pizzeria zio pippo)
- 第参十六話『太さと重さを手で測る』(金沢テニスショップ)
- 第参十伍話『猫の尻尾は、つかめない』(猫本専門 神保町にゃんこ堂)
- 第参十四話『入るとき、出ていくとき』(喫茶さぼうる)
- 第参十参話『もつの煮込みと、柔らかいそれ』(加賀亭みなみ)
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
- 第参十壱話『濡れた午後と、カフェオレの泡』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第参十話『三つの線が同時にそこにあるとき』(『お茶ナビゲート』)
- 第弐十九話『ゆっくり急げ』(雑貨『FESTINA LENTE』)
- 第弐十八話『男は、征服した女の寝乱れた顔を、見ている。』(hair&gallerybooks『moloco』)
- 第弐十七話『エックスであってNOではない』(サクラカフェ 神保町)
- 第弐十六話『妖精に出会う夜』(三省堂書店)
- 第弐十伍話『指は嘘をつかない』(神保町花月)
- 第弐十四話『炒め過ぎない』(謝謝)
- 第弐十参話『小さいけれど、精巧な何か』(呂古書房)
- 第弐十弐話:『Sに気づく夜』
- 第弐十壱話:『角度が大事』
- 第弐十話:『鳥は、鳥は、木に眠り』
- 第十九話:『夜の過ちを消せるペン』
- 第十八話:『南の島にいこうよ』
- 第十七話:『Jazzの夜に』
- 第十六話:『手触りの記憶』
- 第十五話:『顔を形作るもの』
- 第十四話:『ネバーエンディング・ストーリー』
- 第十参話:『万葉かるたのささやき』
- 第十二話:『茶色の下に隠れているもの』
- 第十一話:『煮込まない、寝かさない』
- 第十話:『消しゴムでも消せない匂い』
- 第仇話:『古書の香り、不思議の国』
- 第八話:『白い花びらの行方』
- 第七話:『わたしと あそんで』
- 第六話:『三位一体』
- 第伍話:『雨と月』
- 第四話:『仮面の下の顔』
- 第参話:『背徳の智恵子抄』
- 第弐話:『花魁の美人画・裏を返す』
- 第壱話:『春の琴・指の感触』
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
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