• グルメ部
    今柊二の「定食ホイホイ」
  • 読書部
    とみさわ昭仁の「古本“珍生”相談」
  • 文芸部
    ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」
  • グルメ部
    高山夫妻の「おふたり処」
  • ジャズ部
    DJ大塚広子の「神保町JAZZ」
    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第参十四話『入るとき、出ていくとき』

「マスターも、ママさんも、ここで出会ったんです。一緒に働いてて。
私も、この店で旦那さんと出会い…」
『喫茶さぼうる』で働く伊藤智恵は、大きくなったお腹をさすりながら
言った。もうすぐ2人目が産まれる。
その日も、『さぼうる』のマスター鈴木文雄は、いつもの指定席で
店の様子を見ていた。
1955(昭和30)年4月15日に開店したこの老舗は、
60年以上、神保町という街を見てきた。

涼川小夜子にとってマスターの鈴木は、親戚のオジサンのような存在。
何を話すわけでもなく、顔を見ると、心がなごみ、癒された。
お互い好きなビールで乾杯すると、笑顔になれた。
今は身重のため店を休んでいる智恵が、たまたまお店にいたので、
小夜子はうれしかった。

「智恵さん、いつも素敵な笑顔でうらやましい」
「もう、大変だけどね、なんだか、いろいろ」
「旦那さんとは、このお店の、バイト仲間?」
「そう。たまたま同い年で、向こうは大学生で、私は絵の勉強してて」
「それがなんだか、神保町っぽいね」
「そうかなあ」
「旦那さん、優しそうで、いいな」

『さぼうる』で働くひとは、みんなホスピタリティに満ちているけれど、
小夜子は、智恵の接客に、いつも感心していた。
ふわっと包み込む温かさと、さりげない気遣い。
いつ会っても変わらない笑顔。

「小夜子さん、最近、どうなんですか?」
どう? と問われて、すぐに、昨晩のことを思い出してしまった。
家弓琢磨との2回目は、驚くほどスムーズに事が運んだ。
前回役に立たなかったものは、冬眠から覚めた熊のように猛々しく、
獲物をまさぐった。
突き上げられ、落とされ、落とされて、さらに突き上げられる。
小夜子は、川を泳ぐ鮭だった。
熊は両手を器用に操り、鮭のいちばん柔らかで繊細な部分を、噛んだ。
声が出た。長く哀しく、声が響いた。
愛の行為というより、闘いだった。
愛撫というより、喧嘩に近かった。

「いま、何、考えてました? なんだか、色っぽい目になってましたよ」
智恵に言い当てられて、白状する。
「まあ、例によって…」

琢磨は、なんどか果てたあと、アスリートのように下着をつけた。
「小夜子さん、一緒に旅行に行きませんか?」
彼は私の髪を触りながら、言った。
「旅行?」
「温泉、でも」
「温泉かぁ…」

小夜子は、『さぼうる』のレンガの壁をぼんやり見ていた。
そこに、相合傘が落書きされていた。
私はいったい、何が望みなんだろう。何が、欲しいんだろう。
もうひとつ何かに夢中になれない自分を持て余してしまう。
冷静という名の生き物がいつも頭から出ていかない。
誰かとつきあえば、別れのシーンばかりが鮮明に浮かび上がる。

「小夜子さんって、恋をする直前と、恋を失った直後の顔が
いちばん素敵です」
智恵が言った。
「ウチの店にも、ときどきいらっしゃるんです。店に入ったときと、
出ていくとき、明らかに顔が変わっているお客様。喫茶店って、
つくづく不思議な空間だと、思います」

小夜子は、店の窓から通りを眺めた。
行きかうひとが誰もみな、幸せそうで、哀しそうに、見えた。

『さぼうる』

『さぼうる』

住所
神田神保町1-11
HP
ナビブラDB

『珈琲を持つ、智恵さんの手』

1月28日に、横浜の日産グローバル本社ギャラリーでイベントをやる 『NISSAN あ、安部礼司』のリスナーのみなさんにとっても、 『さぼうる』は、聖地だ。主人公の安部礼司と後輩の飯野平太は、いつも この店で、サボっているサラリーマン。店の優しさに救われて、毎日、 活力をもらう。智恵さん、元気なお子さんを産んでください! 安産、お祈りしています!