「ラケットって、軽ければいいってもんじゃなく、ヘッドにある程度、
重みがあったほうが、いいんですよ。ほら、テニスって、ラケットを
下から上に振るスポーツだから」
「最初は、低い位置が楽ってこと?」
「そうですね」
「隆代さん、それって、恋愛と一緒」
「え?」
「みんな最初から振り上げすぎなんだよね、きっと」
「なんだか、小夜子さんらしい…」
涼川小夜子が話しているのは、神保町の白山通りから入ってすぐの
『金沢テニスショップ』。
テニスブランドでその名を轟かすウイルソンの担当、岩田隆代とは、
このお店で知り合った。
小夜子が古書店街のテニスサークルから誘いを受けたとき、
神保町のタウン情報に詳しい校條という編集者に相談したら、
すぐさまこのお店を紹介されたのだ。
『金沢テニスショップ』は、戦前からあるスポーツ店。店構えは決して
大きくないが、
かつては、東の金沢、西の美津濃と言われた名店だ。
スキー用品で一世を風靡し、現在は、テニス界で知らないひとはいない
ほどの人気店。
神の手を持つ男、店主の須釜正裕が張るガットは、
世界で活躍するプロテニスプレーヤーも大絶賛している。
小夜子と隆代が話している傍らで、須釜がテニスガット(ストリング)を
張っていく。
彼はラケットがボールを弾く音で、自分が張ったものかどうか、
判別できるのだという。
「ああ、うまく球をとらえた!手ごたえ十分ってときに限って、
ボールが勢いよく飛ばないってことあるよね?」
小夜子が言うと、
「その分、包み込んでくれるガットだと、コントロールが効きやすい
ですけど」
隆代が答えた。
「それも、やっぱり似てるかなあ、恋愛に」
「え?」
「ほら、この男は自分にゾッコン!ってときは、最初はしっくり
くるけど、
そのうち、気持ちが萎えてくる。コントロールが効きすぎる相手って、
つまんないよね」
「はははは、もう、小夜子さんにかかったら、何でも恋の話なんですね」
隆代は、笑顔が可愛い。愛くるしい瞳がキラキラ輝く。
小夜子は、こういう笑顔に嫉妬する。自分が男性なら、
優しいラケットになって彼女の笑顔を包み込んで遠くに運びたい…
そう思うだろう。
「まあ、人間もそうかもしれないけど、たわみがあるほうが、ボール
扱いやすい
ですよね。張りがピーンってしてると、ラケットにぶつかったとき、
ボールが何処に飛んでいくか、わからないから」
須釜が言う言葉を、小夜子はぼんやり聞いていた。
(私は…ほんとうに贅沢で飽きっぽいんだろう…。
自分でコントロールできる男は楽でいいけど、すぐに嫌になる。
張りつめている男は
刺激的だけど、傷つけられるのが怖くて逃げたくなる…)
須釜が張るガットを見ていて、
琢磨に、飽きている自分を発見して驚いた。
「潮時…」
「はい?」 なんですか?小夜子さん」
「ううん、なんでもない。ねえ、隆代さんは、どんな男性が好みなの?」
「心が広いひとが、いいですね。ウイルソンのNXTみたいなひと」
「ええ?」
「柔らかくボールを受け止めつつ、しっかり飛ばす、みたいな」
「隆代さんをちゃんと受け止め、包み込み、さらに、ぽーんって背中を
押してくれる、みたいな?」
「はい!」
小夜子は、隆代の笑顔を見て、思った。
「別れよう」
須釜に張り替えてもらったラケットを握る。
太さと重みを、手で味わう。
琢磨は、なんというだろうか。案外、あっさりしているかもしれない。
彼はどちらでもなかった。コントロールしやすくもないし、
張りが強すぎるのでも
ない。
ただ、キスだけは、うまかった。
舌が上あごにからみつく感覚を思い出し、小夜子は一瞬、
動けなくなった。
「どうですか、感触」
須釜に聞かれ、
「ええ、いいです。とっても」
と答えた。
金沢テニスショップ
- 住所
- 神田神保町2-42 第三石坂ビル1F
- HP
- ナビブラDB
金沢テニスショップの担当、岩田さんは、
人懐っこい笑顔と綺麗な瞳が印象的な女性だ。
須釜店主の神業、そして人柄にほれ込み、
このお店に足しげく通う。
仕事を忘れて話し込む。
かつて、お店というのは、みんな社交場だった。
そんな名残りを感じる金沢テニスショップには、
連日、テニス部の学生や、テニスサークルの主婦、
プロテニスプレーヤーもやってくる。
今日もお店をのぞけば、岩田さんと須釜店主の
ステキな笑顔に会えるかもしれない。
- 第百八話(最終回)『さくらが、濡れるとき』
- 第百七話『色、匂い、そして温かみ』(中華そば 伊峡)
- 第百六話『そこに、父が、いた。』(あたらくしあ)
- 第百伍話『元旦や、人間だけがあらたまる』(無用之用)
- 第百四話『ゆびではじいて、そう、小豆を、揺らして……』(無用之用)
- 第百参話『郡上の夜は、明けない』ナビブラ神保町
- 第百弐話『猫娘の舌ざわりと、一反木綿のうねり』明治大学米沢嘉博記念図書館
- 第百壱話『本能的な女と、壁をつくる男』(ARTイワタ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第九十九話『穴をふさぎ、穴を開く』(かふぇ あたらくしあ)
- 第九十八話『しっぽは、心をかくせない』(みわ書房)
- 第九十七話『手でやる? それとも道具を使う?』(ジェオ)
- 第九十六話『内なる奥底に取り込まれた蛍石のように』(薫風花乃堂)
- 第九十伍話『30秒、蒸らしてから……豆をほぐす』豆香房(神保町店)
- 第九十四話『落ちる実、もしくはだれでも一度は処女だった』(元)鶴谷洋服店
- 第九十参話『かきまわしたり、ときに刺したり、またかきまわしたり……』(桜日和)
- 第九十二話『ハートスナイパーは、ローズのつぼみを隠している』(CANDY BOUQUET)
- 第九十一話『あなたの、頑丈な、チューブが、私を、変える』ONNON(オンアンドオン)
- 第九十話『クリが、嫌い、でも、クリが、好き』ufu.(ウフ。)
- 第八十九話『太いギンポは、穴に入り、穴から出てくる』(しゃれこうべ)
- 第八十八話『沈み始めるまで、5秒以内』ワイン食堂 ChatGatto(シャガット)
- 第八十七話『金が光る、嫉妬の焔(ほのお)』(神田伯剌西爾)
- 第八十六話『最初は劣勢でも、巻き返せるときが来る』(共同書店PASSAGE)
- 第八十伍話『姿は見えなくても、確実にそこにいるもの』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第八十四話『だんだん、じょうぶに、なりました』(「澤口書店 巌松堂ビル店)
- 第八十参話『こぼれる、このままでは、こぼれてしまう』(あるまっぷCHIYODA)
- 第八十二話『的の中心を狙わず、穴に直接入れること』(HSTチャンネル)
- 第八十壱話『三つの穴を、埋めるもの』(大和屋履物店)
- 第八十話『運河のように、ひとという名の船が行き交う場所』(喫茶プペ)
- 第七十九話『澱が拡がる〜スノードームのように』(カフェ・トロワバグ)
- 第七十八話『空っぽなリンゴ箱の中に、たくさん詰まっているもの』BOOK SHOP無用之用
- 第七十七話『イルカのメロンは、ぷにゅぷにゅ話す』LAULE’A(ラウレア)
- 第七十六話『黒すぎる黒、白すぎる白』(文房堂)
- 第七十伍話『赤い旋律、ジャズの吐息』( JAZZ OLYMPUS!)
- 第七十四話『悶々、ホルモン……何度も転がして』(十勝ハーブ牛ホルモン MONMOM)
- 第七十参話『虞美人草の花の蜜』(おさんぽ神保町)
- 第七十二話『雄のリズム、雌のメロディ』(イリアフラメンコスタジオ)
- 第七十一話『屋根をつたう、しずく……』(加賀亭みなみ)
- 第七十話『左人差し指は、棹に対して、直角に……』(三味線と小物の店 音福)
- 第六十九話『凹凸が、織り成す色』(PRIMART/プライマート)
- 第六十八話『もちもちで、しっとりしているもの』(@ワンダー&ブックカフェ二十世紀)
- 第六十七話『入れる、入れないは、問題ではない』(リリパット/Book House Cafe)
- 第六十六話『象の鼻は、筋肉で出来ている』(バンコックコスモ食堂)
- 第六十伍話『箱のおもむき、骨のたしなみ』(三慶商店)
- 第六十四話『茹でたもの、蒸したもの、焼いたもの』(スヰートポーヅ)
- 第六十参話『男坂と女坂の、あいだにある坂』(男坂・女坂)
- 第六十弐話『路地裏の赤い哀しみ』(神田すずらん通り)
- 第六十壱話『マサラ〜混ざり合うということ』(インドレストラン マンダラ)
- 第六十話『男と女の点と線』(洋食膳 海カレー TAKEUCHI)
- 第伍十九話『桜と抹茶の間に揺れる』(庭のホテル 東京)
- 第伍十八話『メロンのようなカボチャが、口の中で溶ける』(気生根-Kifune)
- 第伍十七話『外はカリっと、エッグタルトのように』(ポルトガル菓子店「DOCE ESPIGA」)
- 第伍十六話『投げるひと、打つひと、それを見ているひと』(古書『ビブリオ』)
- 第伍十伍話『君によく似た柔らかい陽射し』(cafe&dinning『HORIZON』)
- 第伍十四話『漂流酒場で漂流する』(海文堂「漂流酒場」&「ランチカレー」)
- 第伍十参話『好きだったひとの、かほり』(神保町ブックセンター)
- 第伍十二話『ダナンの龍が火を噴くとき』(神保町「酔の助」)
- 第伍十壱話『アライグマの毛皮を着た男』(SOUP DELI)
- 第伍十話『こじれたひとが、好き』(虔十書林)
- 第四十九話『いつでも着替えられる状態にしておく』(ホワイトカレーと焼酎のお店「神田ゲレロ」)
- 第四十八話『ストレスは風味を落とし、色をくすませる』(flat Grill&Wine 神保町)
- 第四十七話『同じ場所で同じ風景をもう一度見ることは、できない』(カフェ ティシャーニ)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』(すごろくや)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』
- 第四十伍話『能面は、知っている』(書肆 山本店)
- 第四十四話『少女の羽は、夜、開く』(「珈琲舎 蔵」)
- 第四十参話『替え玉がついてくる、人生』(博多ラーメン「めんめん・かめぞう」)
- 第四十弐話『ゾウを飲み込んだ、ウワバミの哀しさ』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十壱話『混ざるほどに極みへ向かう……』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十話『鳥の目が、見ている……』(永森書店)
- 第参十九話『舌にのせて、味を楽しむ』(Bon Vivant)
- 第参十八話『自分の頭に、身を投げる』(らくごカフェ)
- 第参十七話『恋の温度、ふちの焦げ目』(pizzeria zio pippo)
- 第参十六話『太さと重さを手で測る』(金沢テニスショップ)
- 第参十伍話『猫の尻尾は、つかめない』(猫本専門 神保町にゃんこ堂)
- 第参十四話『入るとき、出ていくとき』(喫茶さぼうる)
- 第参十参話『もつの煮込みと、柔らかいそれ』(加賀亭みなみ)
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
- 第参十壱話『濡れた午後と、カフェオレの泡』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第参十話『三つの線が同時にそこにあるとき』(『お茶ナビゲート』)
- 第弐十九話『ゆっくり急げ』(雑貨『FESTINA LENTE』)
- 第弐十八話『男は、征服した女の寝乱れた顔を、見ている。』(hair&gallerybooks『moloco』)
- 第弐十七話『エックスであってNOではない』(サクラカフェ 神保町)
- 第弐十六話『妖精に出会う夜』(三省堂書店)
- 第弐十伍話『指は嘘をつかない』(神保町花月)
- 第弐十四話『炒め過ぎない』(謝謝)
- 第弐十参話『小さいけれど、精巧な何か』(呂古書房)
- 第弐十弐話:『Sに気づく夜』
- 第弐十壱話:『角度が大事』
- 第弐十話:『鳥は、鳥は、木に眠り』
- 第十九話:『夜の過ちを消せるペン』
- 第十八話:『南の島にいこうよ』
- 第十七話:『Jazzの夜に』
- 第十六話:『手触りの記憶』
- 第十五話:『顔を形作るもの』
- 第十四話:『ネバーエンディング・ストーリー』
- 第十参話:『万葉かるたのささやき』
- 第十二話:『茶色の下に隠れているもの』
- 第十一話:『煮込まない、寝かさない』
- 第十話:『消しゴムでも消せない匂い』
- 第仇話:『古書の香り、不思議の国』
- 第八話:『白い花びらの行方』
- 第七話:『わたしと あそんで』
- 第六話:『三位一体』
- 第伍話:『雨と月』
- 第四話:『仮面の下の顔』
- 第参話:『背徳の智恵子抄』
- 第弐話:『花魁の美人画・裏を返す』
- 第壱話:『春の琴・指の感触』
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
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