「私が、落語がいいなあって思うのは、ありとあらゆる失敗談があって、
それなのに、明るくて、笑いがあって、ふわっと元気が
もらえるところです」
らくごカフェの渡邊友惟は、笑顔で言った。
神田古書センターの五階にある、らくごカフェ。
涼川小夜子は、いつしか、火曜日に開催される定例会には、
かなりの確率で参加するようになっていた。
友惟の飾らない雰囲気が好きですぐに友達になった。
彼女には、ひとを包み込む偽りのない優しさがある。
小夜子は、優しさの質には敏感だった。友惟の思いの底を覗き込む。
まるで落語のような包容力のある優しさが見えた。
らくごカフェの、らくご、が平仮名なのがいい。
敷居が低く、落語通でなくても、ふらっと入ってこられる。
店主の青木伸広の、落語をもっとたくさんのひとに知ってほしい
という愛が感じられる。
「小夜子さん、今日は、贔屓の『こみち』さん出るよ」
「そう、あ、でも、今日はちょっと用事があって…」
「そう。デート?」
「ううん、古書店の寄り合い」
小夜子は、「あたま山」という落語が好きだった。
けちな男が、さくらんぼを食べていて、もったいないから、と
種まで飲み込んでしまう。
種はお腹の中でぐんぐん育ち、やがて頭の上で芽を出し、
やがて大きな桜の樹になった。
花が咲くと、花見客が押し寄せる。頭の上でうるさいのなんの…。
男は桜の樹を引き抜いてしまう。
引き抜いたあとには、大きな穴が…。
男は用足しの帰りに、夕立に遭う。頭の上にあいた穴に水がたまり、
池になった。
そこに鮒や鯉やだぼはぜが棲みつき、今度は魚を釣りに朝から
ひとが押し寄せる。
挙句の果てに、舟まで出す輩もいる。うるさくてかなわない。
男は、とてもたまらないと…
自分の頭の池に自分で身を投げた…。
らくごカフェが開店する前に、入ってくる客があった。
リュックを背負ったガタイのいい白人だった。
日本語がわからないらしい。
「ここは、どんな音楽のライブをやる場所ですか?」
そう英語で訊いてきた。
小夜子は、片言で答える。
「ここは、ストーリーテリング、お話を聴かせる場所です」
白人の男性は、わかりやすく首をうなだれる。
「おお、そうですか、では日本語がわからないと、理解、できませんね」
とやはり英語で言った。
小夜子が「残念ながら」というと、出て行こうとする。
その後ろ姿がいやに寂し気で可愛かったので、小夜子は声をかけずに
いられなかった。
「よかったら、今晩、一緒に、聴きますか?私が傍にいて、
教えてあげます」
男性は、うれしそうに笑った。
「ほんとうですか?それはうれしい!明日、シドニーに帰るんです。
最後の夜は、日本の文化に触れたかった!」
大げさに、抱きつかれた。
汗の匂いがする。男というより、雄の体臭に包まれる。
「寄り合いを、サボることになる…」
小夜子は、思った。
こんなふうに私は…サクランボを飲み込む。
それがやがてお腹の中で育ち、やがて疎ましく思うようになるのが
わかっていて……飲み込んでしまう…。
白人は、ダニエルと名乗った。
大きな手で握手されただけで、小夜子の体に電流が走った。
「小夜子さん、『こみち』さん、聴くんですね」
「ええ、このダニエルと一緒に」
落語会が始まり、友惟が、演目をペラリとめくったとき、
小夜子の中の女がめくられ、彼女は、自分の池に身を投げた。
らくごカフェ
- 住所
- 神田神保町2-3 神田古書センター5F
- HP
- ナビブラDB
友惟さんの笑顔は、美しい。
誰もが惹きこまれる深くて綺麗な瞳がこっちを見ている。
彼女目当てに、らくごカフェに通うお客様は多い。
女性のひとり客でも、友惟さんがいれば、安心。
落語のことを知らなくても、安心。
大学生のとき、初めて落語に連れていかれて、笑えなかった。
隣の友人を見ると笑っている。
そのときの経験が、友惟さんの根底にある。
「もっともっと多くのひとに落語の楽しさ、奥深さを知ってほしい」
思いは店主と同じだ。
友惟さんの好みの男性は、落語に出てきそうな、
おだやかで優しいひと、なんだそう。
- 第百八話(最終回)『さくらが、濡れるとき』
- 第百七話『色、匂い、そして温かみ』(中華そば 伊峡)
- 第百六話『そこに、父が、いた。』(あたらくしあ)
- 第百伍話『元旦や、人間だけがあらたまる』(無用之用)
- 第百四話『ゆびではじいて、そう、小豆を、揺らして……』(無用之用)
- 第百参話『郡上の夜は、明けない』ナビブラ神保町
- 第百弐話『猫娘の舌ざわりと、一反木綿のうねり』明治大学米沢嘉博記念図書館
- 第百壱話『本能的な女と、壁をつくる男』(ARTイワタ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第九十九話『穴をふさぎ、穴を開く』(かふぇ あたらくしあ)
- 第九十八話『しっぽは、心をかくせない』(みわ書房)
- 第九十七話『手でやる? それとも道具を使う?』(ジェオ)
- 第九十六話『内なる奥底に取り込まれた蛍石のように』(薫風花乃堂)
- 第九十伍話『30秒、蒸らしてから……豆をほぐす』豆香房(神保町店)
- 第九十四話『落ちる実、もしくはだれでも一度は処女だった』(元)鶴谷洋服店
- 第九十参話『かきまわしたり、ときに刺したり、またかきまわしたり……』(桜日和)
- 第九十二話『ハートスナイパーは、ローズのつぼみを隠している』(CANDY BOUQUET)
- 第九十一話『あなたの、頑丈な、チューブが、私を、変える』ONNON(オンアンドオン)
- 第九十話『クリが、嫌い、でも、クリが、好き』ufu.(ウフ。)
- 第八十九話『太いギンポは、穴に入り、穴から出てくる』(しゃれこうべ)
- 第八十八話『沈み始めるまで、5秒以内』ワイン食堂 ChatGatto(シャガット)
- 第八十七話『金が光る、嫉妬の焔(ほのお)』(神田伯剌西爾)
- 第八十六話『最初は劣勢でも、巻き返せるときが来る』(共同書店PASSAGE)
- 第八十伍話『姿は見えなくても、確実にそこにいるもの』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第八十四話『だんだん、じょうぶに、なりました』(「澤口書店 巌松堂ビル店)
- 第八十参話『こぼれる、このままでは、こぼれてしまう』(あるまっぷCHIYODA)
- 第八十二話『的の中心を狙わず、穴に直接入れること』(HSTチャンネル)
- 第八十壱話『三つの穴を、埋めるもの』(大和屋履物店)
- 第八十話『運河のように、ひとという名の船が行き交う場所』(喫茶プペ)
- 第七十九話『澱が拡がる〜スノードームのように』(カフェ・トロワバグ)
- 第七十八話『空っぽなリンゴ箱の中に、たくさん詰まっているもの』BOOK SHOP無用之用
- 第七十七話『イルカのメロンは、ぷにゅぷにゅ話す』LAULE’A(ラウレア)
- 第七十六話『黒すぎる黒、白すぎる白』(文房堂)
- 第七十伍話『赤い旋律、ジャズの吐息』( JAZZ OLYMPUS!)
- 第七十四話『悶々、ホルモン……何度も転がして』(十勝ハーブ牛ホルモン MONMOM)
- 第七十参話『虞美人草の花の蜜』(おさんぽ神保町)
- 第七十二話『雄のリズム、雌のメロディ』(イリアフラメンコスタジオ)
- 第七十一話『屋根をつたう、しずく……』(加賀亭みなみ)
- 第七十話『左人差し指は、棹に対して、直角に……』(三味線と小物の店 音福)
- 第六十九話『凹凸が、織り成す色』(PRIMART/プライマート)
- 第六十八話『もちもちで、しっとりしているもの』(@ワンダー&ブックカフェ二十世紀)
- 第六十七話『入れる、入れないは、問題ではない』(リリパット/Book House Cafe)
- 第六十六話『象の鼻は、筋肉で出来ている』(バンコックコスモ食堂)
- 第六十伍話『箱のおもむき、骨のたしなみ』(三慶商店)
- 第六十四話『茹でたもの、蒸したもの、焼いたもの』(スヰートポーヅ)
- 第六十参話『男坂と女坂の、あいだにある坂』(男坂・女坂)
- 第六十弐話『路地裏の赤い哀しみ』(神田すずらん通り)
- 第六十壱話『マサラ〜混ざり合うということ』(インドレストラン マンダラ)
- 第六十話『男と女の点と線』(洋食膳 海カレー TAKEUCHI)
- 第伍十九話『桜と抹茶の間に揺れる』(庭のホテル 東京)
- 第伍十八話『メロンのようなカボチャが、口の中で溶ける』(気生根-Kifune)
- 第伍十七話『外はカリっと、エッグタルトのように』(ポルトガル菓子店「DOCE ESPIGA」)
- 第伍十六話『投げるひと、打つひと、それを見ているひと』(古書『ビブリオ』)
- 第伍十伍話『君によく似た柔らかい陽射し』(cafe&dinning『HORIZON』)
- 第伍十四話『漂流酒場で漂流する』(海文堂「漂流酒場」&「ランチカレー」)
- 第伍十参話『好きだったひとの、かほり』(神保町ブックセンター)
- 第伍十二話『ダナンの龍が火を噴くとき』(神保町「酔の助」)
- 第伍十壱話『アライグマの毛皮を着た男』(SOUP DELI)
- 第伍十話『こじれたひとが、好き』(虔十書林)
- 第四十九話『いつでも着替えられる状態にしておく』(ホワイトカレーと焼酎のお店「神田ゲレロ」)
- 第四十八話『ストレスは風味を落とし、色をくすませる』(flat Grill&Wine 神保町)
- 第四十七話『同じ場所で同じ風景をもう一度見ることは、できない』(カフェ ティシャーニ)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』(すごろくや)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』
- 第四十伍話『能面は、知っている』(書肆 山本店)
- 第四十四話『少女の羽は、夜、開く』(「珈琲舎 蔵」)
- 第四十参話『替え玉がついてくる、人生』(博多ラーメン「めんめん・かめぞう」)
- 第四十弐話『ゾウを飲み込んだ、ウワバミの哀しさ』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十壱話『混ざるほどに極みへ向かう……』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十話『鳥の目が、見ている……』(永森書店)
- 第参十九話『舌にのせて、味を楽しむ』(Bon Vivant)
- 第参十八話『自分の頭に、身を投げる』(らくごカフェ)
- 第参十七話『恋の温度、ふちの焦げ目』(pizzeria zio pippo)
- 第参十六話『太さと重さを手で測る』(金沢テニスショップ)
- 第参十伍話『猫の尻尾は、つかめない』(猫本専門 神保町にゃんこ堂)
- 第参十四話『入るとき、出ていくとき』(喫茶さぼうる)
- 第参十参話『もつの煮込みと、柔らかいそれ』(加賀亭みなみ)
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
- 第参十壱話『濡れた午後と、カフェオレの泡』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第参十話『三つの線が同時にそこにあるとき』(『お茶ナビゲート』)
- 第弐十九話『ゆっくり急げ』(雑貨『FESTINA LENTE』)
- 第弐十八話『男は、征服した女の寝乱れた顔を、見ている。』(hair&gallerybooks『moloco』)
- 第弐十七話『エックスであってNOではない』(サクラカフェ 神保町)
- 第弐十六話『妖精に出会う夜』(三省堂書店)
- 第弐十伍話『指は嘘をつかない』(神保町花月)
- 第弐十四話『炒め過ぎない』(謝謝)
- 第弐十参話『小さいけれど、精巧な何か』(呂古書房)
- 第弐十弐話:『Sに気づく夜』
- 第弐十壱話:『角度が大事』
- 第弐十話:『鳥は、鳥は、木に眠り』
- 第十九話:『夜の過ちを消せるペン』
- 第十八話:『南の島にいこうよ』
- 第十七話:『Jazzの夜に』
- 第十六話:『手触りの記憶』
- 第十五話:『顔を形作るもの』
- 第十四話:『ネバーエンディング・ストーリー』
- 第十参話:『万葉かるたのささやき』
- 第十二話:『茶色の下に隠れているもの』
- 第十一話:『煮込まない、寝かさない』
- 第十話:『消しゴムでも消せない匂い』
- 第仇話:『古書の香り、不思議の国』
- 第八話:『白い花びらの行方』
- 第七話:『わたしと あそんで』
- 第六話:『三位一体』
- 第伍話:『雨と月』
- 第四話:『仮面の下の顔』
- 第参話:『背徳の智恵子抄』
- 第弐話:『花魁の美人画・裏を返す』
- 第壱話:『春の琴・指の感触』
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
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