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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第参十九話『舌にのせて、味を楽しむ』

「12年やってきて思うのは…なんだか一巡しちゃった感じかな」

悦子ママが言った。
ここは、神保町の路地裏にあるバー『Bon Vivant(ボンヴィヴァン)』。
根津でウィスキー中心のバーを共同経営していた悦子さんが、独り立ち、
2006年10月10日に開店したお店だ。
涼川小夜子は、事あるごとに悦子ママに相談してきた。
いや、相談というよりただ話を聞いてもらうだけ。悦子ママは決して
自分の意見を押し付けたりしないし、したり顔で説教などしない。
「12年、長かった?」
「そうね…あっという間かなあ。いろいろあったけど」
「ボンヴィヴァン…フランス語で、人生を、生きることを、楽しもう。
悦子さん、私、最近思うんだよね、楽しむにもコツがいるんだね」
「そんなことないよ、毎日の中に楽しい種は隠れてるから、落ち着いて、
ゆっくりあたりを見渡してみればいいの」
そうして悦子ママは、小夜子にアイラモルト『LAPHROAIG』を
ストレートで出した。

カウンターにコトンと気持ちのいい音がする。
カランと氷が傾く音がする。
スコットランドの西海岸沖に浮かぶ、アイラ島…。
遥か彼方の蒸留所から運ばれた風が、鼻孔をくすぐる。
「なんの影響か知らないけど、シングルモルトを、クッと、
一気に飲んじゃうひと、たまにいるのよ。
それが粋で大人の飲み方だと勘違いしてるみたい。
スコッチはねえ、人生と一緒。ゆっくりゆっくり、
舌の上で転がして楽しむの。
しばらく飲んだら……水をちょっと垂らす…
するとね、また味が変わる」
そこで小夜子は言葉を挟んだ。
「その水は…恋みたいなもの?」
「そうね、そう、あるひとにとっては、恋かもしれないね。とにかく…
変化を楽しめるかどうか、それがイチバン大切なの」

ゆっくり…ゆっくり…。酔いがやってくる。
体がふわっと何かに包まれる感じ。

小夜子は、先日のダニエルとの一夜を思い出していた。
ダニエルのそれは全く役に立たず、彼はひたすら小夜子を舌で愛した。
それは激しくも優しく、従順な獣を想像させた。
宴の時間が終わると、彼は突然、泣き始めた。
恋人を山で失ったという。彼女は登山家で世界中の山を登っていた。
小夜子は、彼の頭を胸に抱き、背中をさすった。
「どうしていいか、わからなかったんだ。何をしたらいいかも、
わからなかったんだ。だからオーストラリアを出て、世界中を歩いている。
彼女が巡った国々を、ただ、歩いている」

「悦子さん」
「なに?」
「今夜は、酔っても、いい?」
「ここは、酔うための場所よ」
「…そだね」

どうしてこんなに居心地がいいんだろう…。
それはきっと、悦子さんが、傷つくということを知っているからだ。
それはおそらく、悦子さんが、人間の強さと弱さを
両方わかっているからだ。

アイラ島の風は、小夜子を包み、やがてゆっくり去っていった。

カラン…氷がとける同じタイミングで、ドアが開き、
新しいお客さんが入ってきた。
そのお客さんの顔を見たとき、小夜子は驚き、目を見開いた。
いつも新しい扉は、突然開かれる。
そして…一度やってきた客は、簡単には帰らない。



『ボンヴィヴァン』

Bon Vivant(ボンヴィヴァン)

住所
神田神保町1-64 神保町ビル1F
HP
ナビブラDB

『シングルモルトを出す、悦子さんの手』

久しぶりの悦子さんは、 やっぱりあったかい笑顔で迎えてくれた。 最近、ランチも始めた。美味しいパスタと 悦子さんの優しい雰囲気に癒される。 12年を超え、あらたな気持ちで13年目。 続けるのは大変だけど、 悦子さんは、前を向いて頑張っている。 人生を楽しめなくなったら、 すぐに行きたいボンヴィヴァン!