「ひとの幸せや成功は、全て、そのひとの潜在意識の中にある」。
無能唱元の人蕩術の本に、そうあった。
人蕩術(ひとたらしじゅつ)。ひとをたらす、すべ。
涼川小夜子は、じっと淫蕩の蕩の字を見つめる…。
「その本、けっこうな値段するけれど、人気があるのよ」
振り向くと、そこに高山美香がいた。
ここは、創業明治8年の書肆 燻R本店。美香は、五代目の旦那さんに
嫁いだ奥さんだ。
小夜子とは古書店の寄り合いで知り合った。
小夜子の父親と燻R本店の先代が懇意にしていたことから、
小夜子が幼い頃から店に出入りしていた。
燻R本店は、神保町の古書店を牽引してきた老舗の風格に満ちている。
かつて、司馬遼太郎もここを頼りにしていた。
日本にやってきた南蛮渡来の船が、どんな経路を通り、どんな経緯で
難破、遭難したのか。それを知りたくて、司馬は「海流関連」の
本を求め、燻R本店に文献を託した。
多くの作家たちのシンクタンク。文学作品やノンフィクションの
著作物を支え続ける使命が、古書店にある。
その矜持と誇りが、店内に漂っていた。
「舎利倉和人に、再会したんだって?」
美香に言われて、体の奥がじんと痺れる。
「どうして知ってるの?」
「翠ちゃんに聞いた」
翠も古書店の仲間だ。
「あれだけ振り回されて、あれだけ泣いたのに、まさか、
また、つきあう気じゃないわよね?」
美香は、優しい顔で言う。
彼女には全てを包み込む聖母のようなオーラがある。
「まさか…つきあうわけ、ないじゃない」
言いながら、言葉に力がない。
嘘は、美香には通じない。
和人に、抱かれた。
久しぶりだった。まるで昔住んだ家に久しぶりに入っていくように、
彼は小夜子の体のドアを、強引に、ときに優しく、開けた。
懐かしい「部屋」を開けるたびに、和人は確認し、明確に痕跡を残した。
そのたびに増えていく、体の刻印。彼は嫉妬深く、
小夜子が他の男性の前で裸になれないように、
体のいたるところに、マーキングしていった。
昔と、変わらない…。
でも、一度全ての「部屋」を見られている安心感と解放感は、
心地よかった。
幾たびか、声をあげる。
そのたびに、彼は満足気に小夜子を見下ろした。
「部屋」をひと通り確認し終わると、彼は激しく、いった。
「わかってると思うけど、小夜子さん、あの男だけは、
やめておいたほうが、いいよ」
美香の声は、どうしてこんなに慈しみに満ちているんだろう。
彼女の綺麗な横顔を見ていると、揺るぎない人生を送るひとだけが持つ
強さに気がついた。
自分は、どこでどう、道を間違えてしまったんだろう。
なぜ、自分は、美香のように生きていけないのだろう。
小夜子は、己の潜在意識を探る。
でも、心の底に石を投げても、音は聴こえてこなかった。
小夜子は、それをじっと眺める。
日々、違う表情を見せる、能面。
それは自分を映す鏡。
「小夜子さん、あなた、もっと自分を大切にね」
靖国通りに出ると、夜が降りてきた。
木枯らしに身を縮めながら、小夜子は思った。
「私は、それでも…会いにいく。これから、和人に、
会いにいく…」
淫蕩の蕩の字が…心の中でどんどん、大きくなっていった。
書肆 燻R本店
- 住所
- 神田神保町2-3 神田古書センター1F
- 営業
- 10:00〜19:00(日・祝11:00〜18:00)
- 定休
- 無休
- URL
- 店舗HP
美香さんは、ふわっとした柔らかい雰囲気のひと。
本が好きなので、こうして本に囲まれる生活は楽しいという。
燻R本店には、武術の本が多くあるので、
世界中から武闘家がやってくる。
空手はインターナショナルなスポーツだ。
そんなゴリゴリの闘士たちと美香さんが話す姿を想像すると、
なぜか和む。
美女と野獣。彼らも癒されて森に帰っていくに違いない。
- 第百八話(最終回)『さくらが、濡れるとき』
- 第百七話『色、匂い、そして温かみ』(中華そば 伊峡)
- 第百六話『そこに、父が、いた。』(あたらくしあ)
- 第百伍話『元旦や、人間だけがあらたまる』(無用之用)
- 第百四話『ゆびではじいて、そう、小豆を、揺らして……』(無用之用)
- 第百参話『郡上の夜は、明けない』ナビブラ神保町
- 第百弐話『猫娘の舌ざわりと、一反木綿のうねり』明治大学米沢嘉博記念図書館
- 第百壱話『本能的な女と、壁をつくる男』(ARTイワタ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第百話『男4人に、かこまれて……。』スイーツメディアufu.(ウフ)
- 第九十九話『穴をふさぎ、穴を開く』(かふぇ あたらくしあ)
- 第九十八話『しっぽは、心をかくせない』(みわ書房)
- 第九十七話『手でやる? それとも道具を使う?』(ジェオ)
- 第九十六話『内なる奥底に取り込まれた蛍石のように』(薫風花乃堂)
- 第九十伍話『30秒、蒸らしてから……豆をほぐす』豆香房(神保町店)
- 第九十四話『落ちる実、もしくはだれでも一度は処女だった』(元)鶴谷洋服店
- 第九十参話『かきまわしたり、ときに刺したり、またかきまわしたり……』(桜日和)
- 第九十二話『ハートスナイパーは、ローズのつぼみを隠している』(CANDY BOUQUET)
- 第九十一話『あなたの、頑丈な、チューブが、私を、変える』ONNON(オンアンドオン)
- 第九十話『クリが、嫌い、でも、クリが、好き』ufu.(ウフ。)
- 第八十九話『太いギンポは、穴に入り、穴から出てくる』(しゃれこうべ)
- 第八十八話『沈み始めるまで、5秒以内』ワイン食堂 ChatGatto(シャガット)
- 第八十七話『金が光る、嫉妬の焔(ほのお)』(神田伯剌西爾)
- 第八十六話『最初は劣勢でも、巻き返せるときが来る』(共同書店PASSAGE)
- 第八十伍話『姿は見えなくても、確実にそこにいるもの』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第八十四話『だんだん、じょうぶに、なりました』(「澤口書店 巌松堂ビル店)
- 第八十参話『こぼれる、このままでは、こぼれてしまう』(あるまっぷCHIYODA)
- 第八十二話『的の中心を狙わず、穴に直接入れること』(HSTチャンネル)
- 第八十壱話『三つの穴を、埋めるもの』(大和屋履物店)
- 第八十話『運河のように、ひとという名の船が行き交う場所』(喫茶プペ)
- 第七十九話『澱が拡がる〜スノードームのように』(カフェ・トロワバグ)
- 第七十八話『空っぽなリンゴ箱の中に、たくさん詰まっているもの』BOOK SHOP無用之用
- 第七十七話『イルカのメロンは、ぷにゅぷにゅ話す』LAULE’A(ラウレア)
- 第七十六話『黒すぎる黒、白すぎる白』(文房堂)
- 第七十伍話『赤い旋律、ジャズの吐息』( JAZZ OLYMPUS!)
- 第七十四話『悶々、ホルモン……何度も転がして』(十勝ハーブ牛ホルモン MONMOM)
- 第七十参話『虞美人草の花の蜜』(おさんぽ神保町)
- 第七十二話『雄のリズム、雌のメロディ』(イリアフラメンコスタジオ)
- 第七十一話『屋根をつたう、しずく……』(加賀亭みなみ)
- 第七十話『左人差し指は、棹に対して、直角に……』(三味線と小物の店 音福)
- 第六十九話『凹凸が、織り成す色』(PRIMART/プライマート)
- 第六十八話『もちもちで、しっとりしているもの』(@ワンダー&ブックカフェ二十世紀)
- 第六十七話『入れる、入れないは、問題ではない』(リリパット/Book House Cafe)
- 第六十六話『象の鼻は、筋肉で出来ている』(バンコックコスモ食堂)
- 第六十伍話『箱のおもむき、骨のたしなみ』(三慶商店)
- 第六十四話『茹でたもの、蒸したもの、焼いたもの』(スヰートポーヅ)
- 第六十参話『男坂と女坂の、あいだにある坂』(男坂・女坂)
- 第六十弐話『路地裏の赤い哀しみ』(神田すずらん通り)
- 第六十壱話『マサラ〜混ざり合うということ』(インドレストラン マンダラ)
- 第六十話『男と女の点と線』(洋食膳 海カレー TAKEUCHI)
- 第伍十九話『桜と抹茶の間に揺れる』(庭のホテル 東京)
- 第伍十八話『メロンのようなカボチャが、口の中で溶ける』(気生根-Kifune)
- 第伍十七話『外はカリっと、エッグタルトのように』(ポルトガル菓子店「DOCE ESPIGA」)
- 第伍十六話『投げるひと、打つひと、それを見ているひと』(古書『ビブリオ』)
- 第伍十伍話『君によく似た柔らかい陽射し』(cafe&dinning『HORIZON』)
- 第伍十四話『漂流酒場で漂流する』(海文堂「漂流酒場」&「ランチカレー」)
- 第伍十参話『好きだったひとの、かほり』(神保町ブックセンター)
- 第伍十二話『ダナンの龍が火を噴くとき』(神保町「酔の助」)
- 第伍十壱話『アライグマの毛皮を着た男』(SOUP DELI)
- 第伍十話『こじれたひとが、好き』(虔十書林)
- 第四十九話『いつでも着替えられる状態にしておく』(ホワイトカレーと焼酎のお店「神田ゲレロ」)
- 第四十八話『ストレスは風味を落とし、色をくすませる』(flat Grill&Wine 神保町)
- 第四十七話『同じ場所で同じ風景をもう一度見ることは、できない』(カフェ ティシャーニ)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』(すごろくや)
- 第四十六話『手札の順番を変えてはいけない』
- 第四十伍話『能面は、知っている』(書肆 山本店)
- 第四十四話『少女の羽は、夜、開く』(「珈琲舎 蔵」)
- 第四十参話『替え玉がついてくる、人生』(博多ラーメン「めんめん・かめぞう」)
- 第四十弐話『ゾウを飲み込んだ、ウワバミの哀しさ』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十壱話『混ざるほどに極みへ向かう……』(欧風カレー ボンディ神田小川町店)
- 第四十話『鳥の目が、見ている……』(永森書店)
- 第参十九話『舌にのせて、味を楽しむ』(Bon Vivant)
- 第参十八話『自分の頭に、身を投げる』(らくごカフェ)
- 第参十七話『恋の温度、ふちの焦げ目』(pizzeria zio pippo)
- 第参十六話『太さと重さを手で測る』(金沢テニスショップ)
- 第参十伍話『猫の尻尾は、つかめない』(猫本専門 神保町にゃんこ堂)
- 第参十四話『入るとき、出ていくとき』(喫茶さぼうる)
- 第参十参話『もつの煮込みと、柔らかいそれ』(加賀亭みなみ)
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
- 第参十壱話『濡れた午後と、カフェオレの泡』(ギャラリー珈琲店 古瀬戸)
- 第参十話『三つの線が同時にそこにあるとき』(『お茶ナビゲート』)
- 第弐十九話『ゆっくり急げ』(雑貨『FESTINA LENTE』)
- 第弐十八話『男は、征服した女の寝乱れた顔を、見ている。』(hair&gallerybooks『moloco』)
- 第弐十七話『エックスであってNOではない』(サクラカフェ 神保町)
- 第弐十六話『妖精に出会う夜』(三省堂書店)
- 第弐十伍話『指は嘘をつかない』(神保町花月)
- 第弐十四話『炒め過ぎない』(謝謝)
- 第弐十参話『小さいけれど、精巧な何か』(呂古書房)
- 第弐十弐話:『Sに気づく夜』
- 第弐十壱話:『角度が大事』
- 第弐十話:『鳥は、鳥は、木に眠り』
- 第十九話:『夜の過ちを消せるペン』
- 第十八話:『南の島にいこうよ』
- 第十七話:『Jazzの夜に』
- 第十六話:『手触りの記憶』
- 第十五話:『顔を形作るもの』
- 第十四話:『ネバーエンディング・ストーリー』
- 第十参話:『万葉かるたのささやき』
- 第十二話:『茶色の下に隠れているもの』
- 第十一話:『煮込まない、寝かさない』
- 第十話:『消しゴムでも消せない匂い』
- 第仇話:『古書の香り、不思議の国』
- 第八話:『白い花びらの行方』
- 第七話:『わたしと あそんで』
- 第六話:『三位一体』
- 第伍話:『雨と月』
- 第四話:『仮面の下の顔』
- 第参話:『背徳の智恵子抄』
- 第弐話:『花魁の美人画・裏を返す』
- 第壱話:『春の琴・指の感触』
- 第参十弐話『無限大に響く、スピーカーのように』(JAZZ OLYMPUS!)
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