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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第伍十参話『好きだったひとの、かほり』

「わたし、香りだけで、きゅんって、きちゃいます。
昔好きだったひとの香りをかいだりすると、ふあ〜って
一瞬で戻ります」

神保町ブックセンターで働く、川嶋伽奈は、言った。
美しい瞳がくるくると表情を変える。
白い肌に黒髪が似合う。
「こんなに素敵な笑顔の女性には、かなわない」
涼川小夜子は、心で思った。

小夜子は、午後三時に、ここを訪ねることが多い。
ランチが一段落し、ゆっくり岩波文庫を手にしながら、
コーヒーを飲む。

神保町ブックセンターは、
書店・喫茶店・コワーキングスペースの複合施設。
何より岩波書店の本が充実している。
カレーやデザート、コーヒーも美味しい、くつろぎの場所でもある。
メニューが、岩波文庫の装丁なのも、うれしい。

小夜子は、岩波文庫の『江戸川乱歩短編集』を手にしていた。
「お勢登場」という小説が大好きだ。
不倫している妻は、夫が長持の中から出られずにいるのを知りながら、
閉じ込めてしまう……。
夫が内側から、長持の蓋を掻きむしる音が聴こえてきそうだ。

「小夜子さん」
伽奈に話しかけられて、ハッとする。
「今日は、いちだんと色っぽいんですね。なんだか、この席だけ、
夜が来たみたい」
伽奈は、笑った。
小夜子は、白いシャツの袖をのばし、腕を隠した。
そこに縄で縛られた跡があった。
昨晩、初めて、全裸で縛られた。
まるで自分が生まれたばかりの赤ん坊のように感じられ、気がつくと、
涙が出ていた。
宙づりにされたとき、今まで味わったことのないような快感が
体を貫いた。
もうどうなっても、かまわない。
どんどん、ふくれあがる、自分の中のMの欲望。

「小さい頃、好きだった絵本に、『ふくろうくん』っていうのが、
あるんです」
小夜子の思いとは関係なく、伽奈は、語った。
「特に好きだったのは、そのシリーズの中の『こんもりおやま』。
ベッドに入ったふくろうくんが眠ろうとすると、
足元に、こんもりしたおやまが二つ、見えるんです。
もし、ボクが寝ている間に、このおやまが
大きくなったらどうしよう……。そう考えると、ふくろうくんは
怖くて怖くてどうしようもなくなるんです」
「おやまの正体は、なんなの?」
小夜子が尋ねると、
「さあ、なんでしょう」
と伽奈は笑った。

自分の足元でどんどん、大きくなるもの……。

小夜子は、伽奈の白く美しい手を見つめた。
伽奈は幼い頃からピアノをやってきた。
こんなに綺麗な指で叩かれる、鍵盤の快感に思いを馳せる。

「なにかしら、自分の足元で、大きくなっていくものって……」

もう一度、小夜子は言った。



『神保町ブックセンター』

『神保町ブックセンター』

住所
神田神保町2-3-1
岩波書店アネックス1F〜3F
営業
9:00-20:00
土・日・祝10:00-19:00
定休
なし
URL
お店のHP

『岩波文庫風なブックカバーを持つ川嶋伽奈さん』

川嶋さんが醸し出すポジティブな空気感は、すごい。
聞けば小さい頃は、ひとみしりで、
人前に出ると泣いてしまうような子どもだったらしい。
それがある日を境に、変わる。
今は、たくさんのひとに出会いたい、
いろんな自分に出会いたい、
愛くるしい瞳が、未来の種を見据えていた。