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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第七十一話『尾根をつたう、しずく……』

「これは、ボクの大学時代、山岳サークルにいた頃の話、
なんですがね……」
メンちゃんは、そう言った。
『加賀亭みなみ』のカウンター席。
涼川小夜子の隣には
ホッピーを飲むメンちゃんがいた。
少年のように輝く瞳。
小夜子の飲み友達だった。

老舗居酒屋の『みなみ』が、閉店。
そのショッキングなニュースは、神保町を一瞬で駆け巡った。
喫茶店時代から数えれば、足かけ40年あまり。
小夜子も、常連のひとりだった。
その『みなみ』最後の夜、カウンターで飲んでいると、
隣にやはり常連のひとり、メンちゃんが座ったのだ。

小夜子は、メンちゃん以上に神保町愛に溢れた男を知らない。
明治大学に入学して、初めてこの街を知り、この街に魅了された。
『みなみ』の前身は喫茶店で、サークルの部室代わりだった。
部員は授業に出る前にこの店に寄り、山に行く計画を立て、
いち早く導入されたインベーダーゲームをピコピコやっていた。
店の2階には、テントやコッヘル、ザックなどの山岳グッズが
所狭ましと置かれていた。
『みなみ』が居酒屋にリニューアルすると、酔って寝てしまう部員続出。
メンちゃんも、阿佐ヶ谷の下宿に帰らず、ここに泊る日々を送った。
就職先も、神保町界隈にこだわり、今に至る。

かしらニンニク和えをつまみながら、小夜子が尋ねる。
また、いつもの作り話?と思いながら。
「大学時代、深夜の『みなみ』で何があったの?」

メンちゃんは、答えた。
__あれは、そう、ちょうど今くらいの時期、2月の終わりでした。
「さかいやスポーツ」で山道具を買った帰りに『みなみ』に寄ると、
サークルの同期・小野田がいたんです。小野田はボクとは違い、体も大きく、
髭面で、いかにも山男という感じ。2人で飲んでいると、
ガラっと扉が開いて、サークルの先輩が入ってきました。
篠田冬美さん。冬美先輩は、我がサークルのマドンナ的存在で、
ボクも恥ずかしながら、新入生のとき、冬美先輩に勧誘されたことも
このサークルに入った大きなきっかけだったんです。
冬美先輩は、真っ赤なセーターを着ていて、大きな胸の形がくっきり
していました。
ボクら3人は、したたか飲んで……。
やがて、2階で、雑魚寝。当時としては珍しくありませんでした。
ボクの隣が、小野田、その向こうに、冬美先輩。
酔い覚めか……ボクはなかなか寝付けず……。
ふと、声が、いや、吐息が聴こえてきて……。
真っ暗だったんで、何も見えないし、
もちろん、顔を向けることなんかできません。
小野田と、冬美先輩が……なにやら……。
チラッと、目をやると、冬美先輩のセーターがたくし上げられ、
白い肌が暗闇に浮かびあがり……。
冬美先輩のかすかな声が、聴こえてきたんです。
「きた、アルプス……みなみ……ある、プス、
や、八ヶ岳、おお、おく、ちちぶ、おおおお、おくタマ、
たにがわ……ダケ、たん、ざわ」
大好きだった、冬美先輩が……今、山を登っています。
ボクと一緒ではなく、小野田と……登っています。
耐えきれなくなったボクは、わざと大きなクシャミをしました。
そのあと、静かに、山登りは終わりました__

メンちゃんが、話を終えると、
小夜子は、ぼそっと言った。
「いいえ、2人は、山登りを続けたわよ。
一度登った山を、女は簡単に下りたり、しないものなの」

居酒屋 加賀亭みなみ

居酒屋 加賀亭みなみ

住 所
神田神保町1-14
URL
なし(2021年1月閉店)

居酒屋 加賀亭みなみ

さみしい……。 神保町の路地裏から、またひとつ名店が消えた。
それにしても、なんと居心地のいいお店だったろう。
雅子さん、春美さん、ありがとうございました。
お疲れ様でした。
しばらく“みなみロス”が続きそうですね、メンちゃん。