• グルメ部
    今柊二の「定食ホイホイ」
  • 読書部
    とみさわ昭仁の「古本“珍生”相談」
  • 文芸部
    ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」
  • グルメ部
    高山夫妻の「おふたり処」
  • ジャズ部
    DJ大塚広子の「神保町JAZZ」
    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第八十伍話『姿は見えなくても、確実にそこにいるもの』

「接吻の中に私の正常さが、私の偽りのない愛が
出現するかもしれない。私は彼女の唇を唇で覆った」

そんな小説の一説を諳んじる男。
涼川小夜子は、またしても、ミシマが好きなピアスの男に抱かれた。
ひとばんだけのつもりだったのに……。
「『仮面の告白』っていうんだ、ボクの好きな小説」

小夜子は春が嫌いだった。
どこかふわふわして、不安定。
つかみどころがなくて、やるせない。
新しいこと、新しいものに、挑戦しろ、出会えと
無理に背中を押されているような息苦しさを感じる。

そんな空気感を吹き飛ばすように、
ミシマが好きなピアスの男は
なんのしがらみもなく、なんの無理強いもしない。
楽だった。

「風の時代だっていうけどさ、知ってた?
ヒマラヤ山脈に住む未確認動物のイエティって、
風のように、音はするけど、姿は見せない。
足跡は残しても、実態は、明かさない。カッコいいよね」

話しながら、体をまさぐられ、
小夜子は下唇を、軽く、噛む。
指だけで、光を見た。
「小夜子さん、ご無沙汰しています!」
ギャラリー珈琲店 古瀬戸に現れたのは、
神保町にある大学で学ぶ、まいだった。
彼女は、現在、博士後期課程。
まちづくりを、研究している。
小夜子とは、『BOOK SHOP無用之用』のイベントで知り合った。
まいは、愛くるしい瞳を持った綺麗な女性。
いつも楽しいことを探しているような開かれたオーラが
好ましい。
さらに小夜子がすごいと思うのは、まいの感性が紡ぐトーク力。
次から次へと、わくわくする話が飛び出す。
彼女が見つめる神保町という街は、どんなふうなのだろう、
一度じっくり聞いてみたいと思っていた。

ギャラリー珈琲店 古瀬戸は、まるで静謐な湖の底のような、
やすらぎの空間を約束してくれる。
壁面には青い水辺に真っ赤な木が描かれている。
小夜子は、まいが持っていたノートに目をとめた。
可愛いイラスト。
緑色のワンピースを着た女性の隣に立っているのは……。
緑色の毛並みの……イエティ……。

「イエティとダンスというノートです……」
イエティ。
「表紙にひとめぼれして、5冊も買ってしまいました。
あいまいなままでいいんだよっていうメッセージがあるようで、
それがしっくりきて。あと、最近、緑色に魅かれるんです。
なぜかは、わからないですけど……」

小夜子は、こうしてまたイエティに出会ったセレンディピティに、
不思議な幸福感を覚えた。
「表紙も素敵で、巻頭に短いお話も載っていて、
書き心地も、すごくいいんです」
ノートを愛おしそうになでる、まい。
小夜子は、まいを眺め、ふと、ハッとする。
まいの隣に、イエティが、立っているように思えた。

「ギャラリー珈琲店 古瀬戸」

「ギャラリー珈琲店 古瀬戸」

URL
「ギャラリー珈琲店 古瀬戸」

HSTチャンネル

まいさんは、中学時代はソフトボールで
ピッチャーを、
高校時代はテコンドーをやっていたという。
綺麗な髪を揺らし、楽しそうに話す。
ひとに対して、公平で、誠実。
そんな空気感が漂ってくる。
彼女に会ったひとは、
必ずまた会いたくなる、
そんな衝動を誰もが持つことは間違いない。