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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第百六話『そこに、父が、いた。』

涼川小夜子は、思う。
「かふぇあたらくしあ」は、本当に不思議なところ……。
神保町駅A4出口から徒歩2分にある、“大人の隠れ家カフェ”。
クラシック音楽が流れ、美味しいプレミアム珈琲と、
1926年製のクレデンザ蓄音機が迎えてくれる、極上の空間。
さらに店主の久保田の素敵な人柄に魅了されるひとは、多い。
小夜子もまた、そのひとり。

小夜子は最近、思っていた。
久保田は、魔法使いではないかと。
人と人を結びつける天才でありながら、
若き音楽家を応援し、発表の場を提供するその佇まいは、
『ハリーポッター』で言えば、魔法学校の校長、
アルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドア。
そして……今日、新たな奇跡、魔法に出逢うことになった……。

小夜子は、その日、ある母娘を、久保田から紹介された。
静岡県浜松市出身の大人気パーソナリティ
新井真奈美と、その母だった。

真奈美は、昨年30周年を迎えたK-MIX(FM静岡)の
レジェンド番組『OleOle Jubilo(オレ・オレ・ジュビロ)』の
パーソナリティを務めている。
タイトル通り、サッカーの名門・ジュビロ磐田の応援プログラム。
真奈美は、取材・構成・演出・DJ・編集、全てをひとりでこなす。
今や、ジュビロ磐田の選手、関係者、サポーターで、真奈美の名前を
知らないひとは「もぐり」と言われてしまうほどになった。

サッカー素人の真奈美を、この番組に抜擢したのが
「かふぇあたらくしあ」の店主で、かつてK-MIXのプロデューサーだった久保田。
真奈美は、久保田に感謝してもしきれない。
人生に何人かしかいない恩人だと思っている。
あのとき、サッカーの世界にいざなってくれなかったら、
今の自分は……いない。

真奈美の父は、ウイルソンピアノで一世を風靡した
浜松楽器製造を経営、今は会社も閉じ、故人となった。

真奈美は、両親に愛されて育つ。
父は口数が少ない職人肌だったが、心底、真奈美を愛していた。
その証拠に、母によく言っていたという。
「真奈美を嫁に出したくない!」。

幼い頃からピアノを習った真奈美だったが、練習が嫌いだった。
高校時代は放送部でラジオドラマを作ったり、
DJをやった。
短大時代も、放送研究会に所属、
アナウンサーになりたかった。

短大卒業後は、コピーライターや構成作家として、
ラジオ局の仕事をした。
運命を変えたのは、K-MIX開局10周年のDJコンテスト。
真奈美は見事、優勝する。
やっぱり、パーソナリティになってみたかった。

すでに楽器製造を辞めていた父は、
2019年、75歳でこの世を去った。
最期ともいえる言葉は、
「出荷しなきゃ!」
夢うつつの中で、父はまだピアノをその手で作り、
お客様のために、出荷していた……。
一台一台、丁寧に丁寧に、ピアノに向き合った父。
弦を張ると、「これで心臓に血が流れる」と笑顔になった、父。

真奈美は、おもむろに、小夜子を
「かふぇあたらくしあ」の一角にいざなう。
そこに、アップライトピアノがあった。
さっと、ピアノを覆っていたカバーをとる。

そこに、Wilsonの文字が……。
真奈美さんが、言った。

「小夜子さん、これを奇跡と言わずにいられますか。
父が心を込めて作ったピアノが、
もう絶版で、この世に数台しかないピアノが、
なぜか、私がお世話になった、久保田さんのお店に、あるんです」

聞けば、久保田がこの中古ピアノを購入したのは、
もちろん、真奈美のことなど知る由もなく
(真奈美の父が浜松楽器製造を営んでいたことすら
知らなかった)、
ほんの、偶然。

しかし……いま、
真奈美とその母の目の前に。
ウイルソンのピアノがある。
人生最大の恩人の、お店の片隅に。

小夜子には、アップライトピアノから、
真奈美を思う父親の、こんなささやきが、聴こえた。

「久保田さん、娘の真奈美を新しい世界にいざなっていただき、
ありがとうございました。真奈美は、目に入れても痛くない、
大切な大切な娘なんです。私は口が下手だから、うまくは言えませんが、
真奈美が幸せかどうかだけが、私の気がかりだったのです。
おかげさまで、今、娘は、いい笑顔です。真奈美はねえ、いい子なんです。
思いやりのある、優しいいい子なんです。どうかこれからも、
よろしくお願いいたします」

真奈美が、ピアノに、向かった。
奏でた音は、あったかくて、気持ちのいい音色だった。

かふぇあたらくしあ

かふぇあたらくしあ

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お店のHPなし

『ウイルソンを弾く、新井真奈美さんの手』

真奈美さんとお母様は、素敵な話をしてくれました。 ウイルソンのアップライトピアノには、 金色の紋章がついていて、 人魚がハープを奏でるそのロゴは、 音楽が世界をつなぎ、平和を約束するシンボルだということを 示しているようでした。 そこに、お父様の願いが、見えました。 ウイルソンのパンフの言葉。 『ピアノとのはじめての出会い その心ときめく思い出を ニューウイルソンピアノは いつまでも大切にします』