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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第百七話『色、匂い、そして温かみ』

涼川小夜子は、激しい情事の翌朝、
必ず立ち寄る店がある。

中華そば『伊峡(いきょう)』。
赤い暖簾に、赤いカウンター。
9席だけの大切な空間。
寡黙な店主、沢木が湯を切り、中華鍋を振る。
奥さんの佳代子は、小夜子を見ると、いつも
ニッコリ笑う。

中華そば、500円。
煮干し、かつお、昆布、鶏ガラ、豚骨たちで
作られるスープは見た目以上にさっぱりしている。
その香りを嗅ぐと、小夜子は満たされる。
故郷に帰った子どものように熱いものがこみ上げてくる。

なぜだろう……。
赤いカウンター、スープの匂い、佳代子の笑顔。
この3つで、小夜子は、昇華され、贖罪される。

昨晩も、ゆきずりの交わりに落ちた。
相手は、神保町の商社に勤めるビジネスマン。
びっくりするくらいスーツが似合う男性だった。
ネクタイ、チーフにカフスボタン。
全てパープルで統一していた。
オラオラ系の攻めてくるタイプと思いきや、
ゆっくりまったり、城の周りを囲うだけ。
お堀にはなかなか触れず、本丸に突入しない。
じらされて、懇願。そして、敗北。
こんな「いくさ」を何度繰り返すのか……。
今日も、小夜子は『伊狭』の中華そばをすする。

『伊狭』は、創業1966年。
2019年6月に現在のすずらん通りに移転。
沢木は、二代目だ。
先代の出身地、長野県“伊”那市と名勝・天龍“峡”から、店名をつけた。
沢木と先代との出会いは、亀戸の工場。
先代がラーメン店をやるので手伝ってくれないかと誘った。
1989年に、先代がこの世を去り、沢木が跡を継いだ。

小夜子は、
佳代子に、沢木とのなれそめを聞いたことがあった。
30歳までに結婚したかった佳代子。
病気がちな母と一緒に暮らしていた。
佳代子は、沢木に言った。
「骨董品を持っているんですが、それでもいいですか?」
骨董品とは、母のことだった。

沢木はとことん、優しい男だった。
佳代子の母の面倒も、嫌な顔ひとつせず、やってくれた。
有難かった。
なかなか言葉にはできなかったが、心から
いいひとを旦那にしたと、幸せな気持ちになる。
店舗を増やしたり、儲けようと事業を拡大したり、
そんなことはいっさい考えなかった。
夫と息子(三代目)と三人で、いけるところまでいきたい。
昨今の値上げの波。
それでも、中華そば一杯、ワンコインで済むように留めた。

小夜子は、佳代子の話を聞いて、泣いた。
こんな家族の在り方も、存在する。
それは希望であり、悔恨であり、羨望だった。

「ごちそうさま」と小夜子が言うと、今日も佳代子は笑顔で、
「ありがとうございました。またね」と言った。

伊峡(いきょう)

伊峡(いきょう)

URL
お店のHPなし

『食器を洗う沢木佳代子さんの手』

神保町のサラリーマン、学生さんは、
『伊狭』の半チャンラーメンに、
どれほど救われただろう。
今も700円で、お腹も心も満たされる。
そして、佳代子さんの笑顔。
ここは、ひとを癒す峡谷がある。
ひとびとは、ここで羽を休め、
また天に向かって飛び立つ。

佳代子さんの好きなタイプは、
ヒゲにサングラスのマーチンこと、
鈴木雅之だそうです。
なんか……意外。